シャンクスさんから『推薦状』の話を聞いてから、仕事内容から何やらを少しずつノートにまとめ始めた。
それは簡単な作業ではないけれど、一から説明するくらいなら、そのノートを見てもらう方が楽であると考えたからだ。
「思ってた以上に真面目だな。」
突然の声に驚いて顔を上げると、そこにはイタズラに笑うエースさん。
知らない間にその作業を盗み見られていたようで、サッとノートを取り上げられてしまう。返して下さいと言う隙もなく、ペラペラとページがめくられる。
「あ、あの…」
「すぐ終わるって。」
笑顔で流されてしまうと、あまり強くは言えない。間違っていたらどうしようかとヒヤヒヤしながら、ただ俯いてノートが手元に戻ってくるのを待つ。
小さくなる私に投げかけられたのは「完璧。」の一言。
「え?」
「そんな、驚いた顔すんなよ。シャンクスさんが任せただけあって、ほんと完璧、完璧すぎるマニュアルだ。」
「でもザックリしか書いてないです。」
そう、細かく書きすぎれば業務内容の漏洩にも繋がりかねない。その上、扱うのはパソコンであるものの、向き合う相手は人間なのだ。マニュアルを作成したところで、どうにもならないこともたくさんある。
「臨機応変にやんなきゃなんねぇし、細かくなんて教える必要ねぇって。そこら辺は気にすんなって。」
エースさんの言葉には説得力がある。不安だらけだったが、そう言ってもらえただけで、ずいぶんと自信に繋がった。
会議に向かうと言う先輩を送り出し、私は自分が作成していたノートに目を通す。
「細かく教える必要はないか…」
きっと思い詰めないように声をかけてくれたのだろう。そう気がついたのは、エースさんがここを離れて5分ほどしてから。
やっぱ、もうちょっと詳しく…
足りないのは困るが多すぎるのは問題ないだろう。ノートにさらに、書き込みを増やそうとしたところでピーピーと加湿器が鳴った。
なんでこうも卓上加湿器は給水されたがるのか。
タンクを本体から外し、給湯室に向かう。そこではお局と呼ばれて長いアルビダさんの姿が。
「スカートが短いわよ、あなたたち!」
「す、すみません。」
「会社に何しにきてるの?パンツをみせるため?だとしたらとんだ変態ね。」
「いえ。あの…」
思わず入り口で立ち止まってしまった私と、バイトの女の子たちを金切り声でドヤすアルビダさん。女の子たちは何故怒られたのかと、困惑している様子だった。
別にここに踏みいることに問題はない。ただ雰囲気的に今は入りにくい。
このゴタゴタはいつになったら片付くのだろうと、気が重くなるが、給水タンクに水を入れるくらいならばトイレでも充分だ。この場は撤退しよう。
気持ちを切り替え、ゴタゴタに背を向ける。そんな私の頭にポンッと大きな手のひらが添えられた。
「待て。逃げるな、逃げるな。」
「シャンクスさん…」
「そんな疲れた顔をするなよ。」
ニッコリと笑うシャンクスさんは穏やかな表情で笑う。
この会社の男性社員はどんな役職者でも、女同士のいざこざを避ける傾向にあるのだが、この人は本当に怖いものなしだ。
シャンクスさんは頭に触れていた手を「おっと、セクハラになるな」と言って引っ込めた後、アルビダさんたちの方に目を向ける。
叱られているバイトの一人がこちらの存在に気がつき、救いを求めるような目をしていた。
「いのししみたいな女だよな、あれは。」
「いのししって…」
「ターゲットをみつけた途端、興奮してつっこんでいくとこなんてそっくりだろ。」
「きっと、恋人にフラれたんですよ。」
「そんなことなら、いい男紹介してやるか。」
冗談のつもりだったのに!私はハッとしたがもう遅い。彼は明るく言って、ネクタイを緩める。イオナの手に握られていたタンクをサッと取り上げると、軽い足取りで、金切り声の中に飛び込んでいった。
どうしてただの契約社員にこんなに優しくしてくれるのだろう。ついでなのかもしれないが、それでも嬉しいことには代わりなく、入社してから変わらないその優しさは私の原動力でもある。
本当に正社員になれるかなんてわからないけれど、今はただ上司であるシャンクスさんの期待に応えたい。
新人教育を頑張って彼に評価されたい。
「って、なに考えてんだろ…」
月末の残業続きのせいだろうか。
ちょっとした言葉や優しさに敏感に反応してしまう。こういう精神状態の時、通常の女の子たちは悪い男に引っ掛かるのだろう。
悪い男にすら引っ掛かったことのない私って一体なんなんだろう…。
給湯室の中ではタンクを手に仲裁を努めるシャンクスさんと、不満げな表情のアルビダさんがなにやら揉めている。バイトちゃんはキラキラした目を救世主へと向けていた。
ここで待っている理由もない。なにより、他の女の子に優しくしているシャンクスさんを目にするのは、あまり嬉しいことではなかった。
とぼとぼとデスクに戻り、残されていた資料の整理と冊子作りを始める。コピー機から出てくる紙の束を手に取り、デスクに運ぶという作業を繰り返す。
正社員ならばバイトにお願いできる仕事なのだが、自分は契約社員だ。バイトと契約社員ではずいぶんと立ち位置は異なるが、それでも人を使う気持ちにはなれなかった。
機械から出てきた100枚近い資料の束を抱えて立ち上がろうとしたイオナの頭上から、不快な声が降りかかる。
「おい。これも10部頼む。」
顔を上げるとモーガンさんがイライラした様子で、分厚い資料の束をこちらに押し付けようとしていた。
たいして偉くもないのに、ふんぞり返ってるこの男はうちの部署でも鼻摘み者。なるべく関わらないのが暗黙の了解だ。
よりにもよってなんで私が。
本心としては自分でやれよ、デカブツ野郎。なのだが、そんなことを言えるほど肝は座っていない。
「そこに置いておいてください。今はエースさんから任された仕事がありますので。」
「ダメだ!すぐやれ。」
周りの社員がみな振り向くくらいの大きな声にギョッとする。一度作業に戻していた視線を彼へと戻し、身を固くする。
どうしたものか。
エースさんのデスクに乗せられている資料の量を思うと、モーガンから頼まれた仕事をしている暇はない。いや、正確には時間はあるけれど、こんな自分勝手な人のために無駄に頑張りたくない。
微妙な沈黙の中、差し出された資料が鼻先で揺れる。そこでシャンクスさんが鼻唄交じりに戻ってきた。
「おう、モーガンか。あっちのコピー機なら空いてたぞ。いちいち並んで待つなんて、意外と真面目なとこもあるんだな。」
「………………。」
まるでからかうような口ぶりで言われ、モーガンは小さく唸る。それが皮肉であると理解していたところで、課長に盾を突く勇気はないらしい。
そんな彼をよそに、私のデスクに置かれた加湿器に給水タンクを取り付けたシャンクスさんは、アロマオイルを数滴垂らし鼻をくんくんさせている。
自分に向けられている視線の全てが好意的でないものだときがついたモーガンは、私を睨み付け「クソ、もういい」と捨て台詞をはいてイライラと立ち去った。
悪いの私かよ!
などと突っ込む暇はもちろんない。
それでも、ちょっとお茶目にウインクをきめて、ピースサインを作るシャンクスさんをみれば、その怒りもすぅっと抜け落ちた。
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