triangle | ナノ

翌日。

シャンクスは午後からの外回りにゾロを連れ出した。おかげでイオナの仕事は捗り、前日よりもずっと早い時間に仕事を終わらせることができた。

すでにゾロからは直帰するというメールが入っており、今晩は自由の身であることがわかっている。態度にこそ出さないが、イオナはるんるん気分で帰宅準備を進める。そんな彼女に、隣のデスクで伸びをしていたエースが声をかける。

「なぁ、久しぶりに飲みに行くか?」と。

突然の誘いに思わず、え?と声が漏れる。ここのところ、想定外の残業が多く、四人での外食が多かった。翌日に響くということもあり、居酒屋にこそ行かなかったが、最初の乾杯はビール立ったし、何よりそこそこの外食数だ。

それなのに、久しぶりという表現はどこか変だ。
不思議に思うイオナの心情を察してか、エースは楽しげに言葉を紡ぐ。

「ゾロもいねぇし、シャンクスさんもいねぇし、板挟み者同士、二人でゆっくり話そうぜ。」

「それならあの焼き鳥屋さんがいいです。」

「気に入ったのか?」

「はい。あそこで食べたポテトサラダが忘れられなくて。家で再現できるかな?と思ったんですけど、全然うまくいかなくって。」

イオナは話しながら荷物を纏め終えると、それが当たり前であるかのようにエースの机まできれいに片付ける。別段散らかっていたわけでもないが、ある程度の文房具の配置を考え、資料のファイルを色の順に並べた程度のことだ。

「いっそのこと、オヤジさんにレシピ聞いちゃえよ。」

「無理ですよ。」

「すぐに無理とか言うなって。イオナが聞かねぇなら俺が先に聞くぞ。」

「それ、私に答え与えてるじゃないですか。」

「おお、確かにそうだ。」

ドアへと向いながら二人は会話を続ける。
シャンクスから女に疎いと言われているエースだが、こういうときのエスコート力は抜群だ。

ちょっとしたお姫様気分を味わいながらも、イオナはチラホラと嫉妬の視線を感じていた。

少し前の彼女なら、それだけで竦み上がっていただろうが、今は違う。冷たい視線に晒されるのには慣れてきていた。できの悪い後輩を持つというのはそういうことでもあるのだ。

いちいち落ち込んで、メソメソしていては精神を病んで、体調を崩してしまう。その環境と周囲に順応していくしかなかった。

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定休日。

そう書かれた板が吊るされた店の前で、イオナとエースは顔を見合わせる。

「ここまできたのにやっちまったな。」

「ちゃんと調べておけばよかったですね。」

「いや、つーか俺、木曜が定休日って知ってたわ。」

「え?」

「今日が木曜だってこと、うっかり忘れてた。」

人差し指の背で鼻の頭を擦りながらエースは申し訳なさそうな顔をする。まるでイタズラがバレた子供のような表情だ。それをみて、イオナはフッと笑った。

こういうときに女の本質的な部分が見える。

正直嫌な顔をされるだろうと思っていた彼は、「これからどうしましょうか?」と首をかしげる後輩に対して、なんとも言えない安堵感を覚える。

イオナは誰かの失敗に対して、本気で怒ることをしない。幾度となく同じ失敗を繰り返されても、参った顔をして嘆くことこそあるが、怒鳴るようなことは決してしない。

事実を受け止め、結果を受け入れるのだ。

そんな性格が後輩を付け上がらせているようにも思えるが、それがなければゾロはきっと仕事を続けられなかっただろう。

そう思うからこそ、上司の意思とは関係なく、真面目にイオナをフォローしたいとエースは考えていた。

「せっかくだし、ホテルでも行っちまうか?」

唐突に放たれた先輩のからかいに、イオナは顔を真っ赤にする。

「や、やめてください。そんな冗談…!」

「アハハ、いい反応だな。」

「酷いですよ!?」

「ああー。悪い悪い。俺が悪かった。シャンクスさんにチクるなよ。」

「言いつけますから、絶対にっ。」

頬を膨らまし、顔をフィッと反らす後輩をみて、エースはカラコロと笑う。きっと、思っていた通りのリアクションだったのだろう。そんなに怒るなよ。と言いながらも、まったくもって危機感を覚えている風ではない。

「うまいことやったよな、あの人も…」

「なんの話しですか?」

「いや、なんもねぇよ。」

退屈そうに仕事をしていたイオナが、喜怒哀楽の感情をハッキリと出し始めたのはゾロがやってきてからだ。

人差し指を駆使してタラタラとタイピングをしているゾロを見て、プスッとおかしな笑い声を漏らしたり、些細なことで口論をしてムスッとしたり、表情がずいぶん豊かになった。

それがシャンクスの狙いであることに気がついたのは二週間が過ぎた頃で、とてつもなく楽しそうにしているわけではないが、隣の席で生き生きと仕事をしているが、イオナをみていると自分も頑張ろうと思える。

予想外に彼女とゾロがツーカーなため、部下を"いろいろな意味で"想っている上司は少しだけ複雑そうな顔をみせるが、それはそれだ。

エースからすれば、照れた顔や不満げな顔をする上司になんて言葉をかければいいのかわからず、常に中立的な態度でいることを心がけている。

それが上司のためであり、自分のためであり、そして、かわいい後輩たちのためでもあると考えていたからだ。

エースは良い場所があるとイオナに切り出した。その場所にはずいぶんと足を運んでいなかったが、店が今だ健在であることは知っていた。

思い出深い店に向かうのは、傷口を抉られても笑い飛ばせる時だけだ。過去の恋人との記憶を思い出すきっかけになるであろう店のドアを叩いたエースは、後輩の柔軟な性格に賭けていた。
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「エースさんそういえば恋人は?」

ほどよく酒が進んだ頃だろうか。イオナは自然な流れで訊ねる。それに対して、エースは「無理無理。俺なんかダメダメなんだよ。」と仕事の時には見せない、ネガティブな一面を露見させた。

そんな先輩の姿にイオナは目を丸くするが彼は、その一切を気にしない。

プライドなど忘れたとでも言いたいのか、カクテルグラスに添えられていたイオナの指に自身の指を絡ませながら言葉を続ける。

「ダメダメなんだよ。ほら、俺ってば仕事ばっかりだろ?うっかり約束忘れちまって、パチーンッと頬叩かれちまったよ。」と……。

昔の恋人と足蹴なく通ったバーへと足を踏み入れたエースは、恋人と隣り合って座った席がよく見えるテーブル席で、イオナとカクテルの飲み比べをして楽しんでいた。

といっても、イオナはちょっとだけ口をつける程度で、そのほとんどをエースが飲み干している。おかげで酔いが回ったらしい彼は饒舌だ。

「俺はさ、一方しか頑張れねぇ。シャンクスさんには器用貧乏なんて言われるけど、器用なら彼女に愛想尽かされたりはしないよな。」

彼が未練を口にするのは、ここが思い出の場所だからだろう。入店直後のバーテンダーとエースの会話からそう推測したイオナは、余計なことは言わない。

指の間や手のひらを這う分厚い皮膚の指先が気になってしまい、つい彼の指を握ってしまう。エースは曖昧に微笑むと、手のひらで握り返した。

「イオナは優しいよな。アホみたいな慰めは言わねぇし、めんどくさそうな顔もしねぇし。」

「どんな顔したらいいかわからないだけですよ。」

「だからいいんだろ。別に俺は慰められたいわけじゃない。」

「そうなんですか?」

小首を傾げたイオナにエースはニカッと笑って見せる。酔いのせいでコロコロと変わる雰囲気に、ドキドキさせられっぱなしだ。

ソバカスの浮いた頬と、酔いが回ってトロンとした目。いつもと同じように右と比べて左側の口角の方がより持ち上がっているが、今日のそれはどこか普段より甘ったるい印象を覚えた。

イオナの視線は酔いたんぼの先輩に釘付ける。

目を奪われるとはこのことで、普段の彼も充分にかっこいいが、今の彼はまた別な魅力に溢れている。

そんな彼女の熱い視線に気がついているのかいないのか。エースは明るく笑うと、絡めていた指をほどいてグラスを手に取り、残っていたアルコールを一気に煽った。

「そうだ。俺のことよりイオナの話だな。」

「そんなに呑んで大丈夫ですか?」

「あぁ。平気だ。」

「いや、でも…」

戸惑うイオナのことなどお構いなしに、彼は新しいカクテルを注文する。アルコール度数の強いものを選ぶのは、潰れてもいいと思っているからだろうか。店員とのやり取りを終えたエースは腕時計の文字盤をちらりと確認した後、イオナにニッコリと笑いかけた。

「イオナはシャンクスさんの攻略法考えてった方がよくないか?」

「へ?」

「あのおちゃらけ上司を落とす攻略法だよ。」

「お、落とすなんて!!!」

「好きなんだろう?だったら…」

「や、それは。」

「違うのか?」

「いえ、違わな…いや。そうじゃなくて…。」

「否定したり、肯定したり。忙しいやつだな。大丈夫だよ。俺は誰にも言わねぇし、シャンクスさんだって今に気づくだろうし…」

「エースさん!?」

大袈裟な彼女のリアクションがおもしろかったのか、エースはケラケラと笑う。

このときイオナの心拍数が上がったのは、先輩のみせた無垢な笑顔のせいなのか。はまたま隠していたはずの恋慕の感情を指摘されてしまったからなのか。

彼女の動揺を示すかのように、グラスに残された氷がカランと音を立てた。

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