深夜リビングに戻ってきたイオナから漂うシャンプーの香りは、鶏ガラスープの匂いで充満していたその空間を、爽やかな香りが塗り替えた。
まるで熟れた柑橘がそこにあるかのような錯覚。普段つけている香水とは異なる、すっきりとした甘酸っぱさは、サンジに夜の嫌な出来事を思い出させない。
それまでの葛藤や不満、苛立ちまでもがオレンジ色に上書きされ、感情の濁りが洗われた。
サンジは無意識に頬を緩める。
「お風呂は気持ちよかったかい?」
シンプルなデザインのTシャツに薄い黄色のすててこパンツ。前髪をピンでとめたラフな装いのイオナは、キッチンに立つサンジの姿をみて、ほっこりした笑顔を浮かべた。
「はい。でも、ほんとに起きててくれたんですね。」
「やることがあったからね。それより、お腹、空いてないかい?」
「んー。ペコペコかもしれません。」
イオナはお腹に手を当てて、肩を竦めるジェスチャーをしながら答える。
その動作だけでも充分子供っぽいのだが、なにより特徴的なのは、"抱き締めたくなるほどに無邪気な笑顔"だった。
ほんの一瞬ではあったが、サンジは見惚れてしまう。毎日みているはずのイオナの顔だが、その表情は初めてだった。
「私の顔、なにかついてますか?」
「いやっ!そうじゃないんだ。ごめんよ。」
イオナに指摘され、慌てて視線を伏せる。ここで素直に謝る方が、サンジらしくないと言えるのだが、彼本人は謝る以外を選択する余裕がなかった。
「すぐに出来るから、座って待ってくれるかい?」
「はい。」
礼儀正しい返事をしたイオナは、一瞬なにか言いたげな顔をする。けれど、サンジがそれに答えることもないと考えたのか、ダイニングテーブルではなく、三人がけの長いソファの隅に腰を下ろす。
特にやることもないのが手持ち無沙汰なようで、足をぶらぶらさせたり、天井を見上げたり、部屋を見渡したり。
ナミが忘れていった雑誌をみつけると、それを手に取りページをペラペラとめくり始めた。
そんな何気ない動作を、ついつい視線で追っていたサンジだったが、彼女にそれを悟られぬうちに背を向ける。
そして、それから5分が経った頃。
「サンジさん。悩みごとですか?」
「……っ。」
「疲れてますよね?眠れてないんじゃ…」
背中に声をかけられ、思考が停止する。その原因が自分であるとは思っていないのか、イオナは心底心配しているような口ぶりだ。
ほんわかした彼女の雰囲気とは正反対の鋭さ。その洞察力はサンジの心を抉る。
「いや…、別に…。でもなんで?」
「朝もずいぶんボーッとしてましたから。さっきはだいぶ顔色もよかったですけど、昼間はもうちょっと調子が悪そうで。」
イオナに背中を向けたまま、硬直するサンジ。彼女はそれに気がついていないのか、ただ自分が見たままのことを言葉にする。
「それに、最近のサンジさん。ぜんっぜん、ナミさんやロビンさんを口説いてないですよ?ルフィさんがつまみ食いしてもあまり怒らなくなってますし…」
そこまで見ているにも関わらず、何故、気がついてくれないんだろう。このまどろっこしい想いに、横恋慕に、軋み続ける心の痛みに。
イオナが悪いのではない。イオナはイオナ自身が選んだ相手とただセックスをしているだけだ。
船内でそんなことをしている時点で、"どうかしている"なのだが、今はその常識的な部分をどうこう指摘するつもりはなかった。
なにより、今のサンジは軽蔑すべきことすらわからないほどに、イオナを想っていたのだから。
サンジはガスの栓を閉める。
火にかけていた鍋は余熱でフツフツと煮えるが、それもすぐに収まるだろう。
これまで感じてきた悔しさ。
苦しみも、痛みも、悲しみも。
自己嫌悪に背徳感。
もちろん、恋しさも。
そのすべてを彼女にぶつけたい。
睡眠不足で思考はうまく働かない状況で、恋敵に指摘されたせいかもしれない。その追い詰められた心情の表面をイオナが撫でたからかもしれない。
これまで煮詰めに煮詰めてきた想いを、諦めきれなかった執着をぶつけなくては気がすまない。
衝動的にそう思った。
イオナに向き直ると、彼女はソファの背から身を乗り出してこちらをみつめていた。そして、目が合うと、ふわりと微笑む。
どうしてそんな風に笑えるんだろう。
大好きな子にとっておきの笑顔を見せられた自分は、今、どんな顔をしているんだろう。
サンジは自身の頬に手で触れてみる。
けれど、それでわかるほど人の顔の作りは簡単なものではなかった。
「隣、座りますか?」
イオナにはその表情がどう見えたのか。相変わらずの笑顔で、小首をかしげる。それは野うさぎが腹を空かせた狼を巣穴へ招く行為に等しい。
「イオナちゃんは無防備だね。」
「そう…でしょうか?」
「普通は深夜に男と二人きりになったりしないよ?それとも、そういうことに抵抗がない?」
ゆっくりと歩みよりながら放たれる、淡々とした問いかけ。
それに対して、彼女が考え込むようなことはない。けれど、その危険な空気を察してはいるのか、わずかに表情を強張らせた。
「あるか、ないか、と言われたら、ないんだと思います。でも、それは─」
それはなんなのか。それを聞く前に、サンジは彼女の唇を自身のそれで塞いでしまう。イオナは抵抗しなかった。静かに瞼を閉じ、その一方的な接吻を受け入れる。
「あの、サンジさん…?」
「イオナちゃんはセックスが好きなの?」
「それは…」
彼女は視線を伏せたが、その潤んだ瞳の熱っぽさは隠しきれていない。サンジはイオナの顎に手を添え、持ち上げる。
「それとも、アイツが…」
「…っ!」
彼女の"本気で"驚いた顔は初めてだった。目を大きく開き、口をポカンと開いたイオナを前に、サンジはどこか冷静にこの表情は万人共通なのかもしれないなと思う。
「俺が気がついてるって知らなかったんだ。」
開いたままのイオナの唇に、もう一度それを押し当てる。彼女は今どんな気持ちなのか。舌をねじ込み、逃げ惑うイオナの舌を追いかける。
「んっ…」
顎から伝う雫。熱っぽさを増す口づけに、嫌なほどに自身が張り詰める。せめて抵抗してくれれば"やめること"ができるのに。
抱きたい訳ではなかった。
ただ知りたかっただけ。
イオナが何を想い、何を考えているのか。
知ってほしかっただけだ。
イオナの行為にどれだけ傷つけられたかを。
それでも彼女がこの傲慢な行為を受け入れてしまう以上、切り上げようがない。
ソファになだれ込むようにして、イオナを押し倒す。彼女は顔を強張らせながらも笑みを浮かでおり、抵抗することなく受け入れる。
なんで…
窮地に立たされているのは、組み敷かれているイオナのはずだ。けれど、精神的に追い詰められているのは自分のようにしか思えない。
サンジの額を冷や汗が濡らした。
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