一途な君のこと | ナノ

分岐点

お互いに"そんな雰囲気"であることは理解していた。だからこそ、イオナはどこか落ち着きがなく、自分自身もまたぎこちなくなってしまうのだろう。

ゾロはやっとたどり着いたイオナの部屋、狭い玄関で彼女から声がかかるのを待つ。彼女いわく、どうにも散らかっているらしいのだが、あの性格からして散らかしているとは思えない。

それでも「待っていて」と言われた以上、無視してズカズカと上がり込む訳にもいかず、下駄箱の上に乗せられた30cmほどの水槽へと目を向ける。

そこで生活しているのは可愛らしさや、美しさに長けた熱帯魚。ではなく、呆けた顔立ちが特徴的で、大ブームとなったこともある両生類。

カラフルな砂利が敷き詰められた上、蛸壺の中で黄色味がかったウーパールーパーがぼんやりしている。イオナからみると、この表情は微笑んで見えるらしいのだが、ゾロからすればポカンとしているようにしかみえない。

一時はゲーセンの景品になったこともあるらしいのだが、そうしてもらわれていった"彼ら"は幸せに暮らしているのだろうか。

「そういや、聞き忘れてたけど…」

ゾロはイオナに声をかける。 すりガラスのはめ込まれたドアの向こうで、キャメル色の影が動いた。イオナはドアの隙間からひょいと顔を覗かせると、なに?と首を傾げる。

「コイツの名前。」

「あぁ、シノクニだよ?」

「はい?」

「シ ノ ク ニ !」

「へぇ…」

聞き返したのは、聞き取れなかったからではない。驚いたからだ。

女の子がつけたにしては可愛いげのないネームセンスに、どのような相づちを打てばいいのかわからない。ゾロは水槽へと視線を戻す。

どうやら『シノクニ』は餌を貰えると思ったらしい。ゆったりとした動作で蛸壺から出てきて、これまたゆったりとした動作で顔を持ち上げる。

両生類に考える力はない。人間が餌を与えてくれると、本能として心得ているのだろう。

「なあ… 」

餌をやっていいか?と聞こうと、視線をイオナへと戻すが、彼女はすでにドアの向こうに引っ込んでいた。
……………………………………………………………

ぎこちない。会話が弾まない。目すら合わない。

イオナの方から「何か飲んでいく?」と部屋に誘ってくれた。だからこそ、油断していたのだが。

なにもかもが上手くいくとは限らない。

送っている時は普段通りとはいかないものの、それなりに言葉は交わせていたし、なにより冗談を言う余裕もあるようだった。

イオナが警戒するようならタクシーで家に帰ろうと考えていただけに、部屋にあげられた上で無言になられるのは結構キツい。

「なぁ、イオナ?」

「なに?」

「大丈夫か?」

「なにが?」

「いや、大丈夫ならいいんだ。」

小さなテーブルを挟んで向かい合い、ぎこちないやり取りを繰り返す。もう帰った方がいいのだろうか。出された珈琲は冷めているし、無難な会話も思い浮かばない。

強いて言うのなら、ベッドの枕側にある棚に並べられた食玩は気になるが、今話を振ったところでまともな返事がもらえるのか。

緊張感が緊張を呼んで、互いの発する緊張が互いに伝染して、その雰囲気がさらに緊張感を膨張させる。

悪循環の中でゾロはイオナに気づかれないよう、深呼吸を真似た深い溜め息をつく。彼女から何か発せられることはないだろう。だからこそ、自分が何とかしなくてはならない。けれど、上手くやれる自信はない。

ここまで緊張したのはいつぶりだろうか。

マリとの関係は常に向こうが主導権を握っていた。ときめきなんてものは置き去りで、流れに身を任せるばかりだった。

言い寄られて、付き合って、関係を維持することに意固地になって。それを長く続けてきたせいで、恋愛っぽさは一切なかった。

いや、当時はそれを恋愛だと思っていた。イオナと出逢うまでは…

「ゾロ、あのさ…」

「ん?」

「さっきはありがとう。」

「いや、別に俺は…」

イオナは俯いたままだ。マグカップを包み込んだ両手を、ジッと見つめている。頬がほんのり赤く見えるのは照明のせいだろうか。

「つか。なにがあったんだよ。」

「それは…」

「答えられねぇなら、質問変える。誰に何を言われた?」

先の質問では静かに口ごもったイオナが、今度は驚いたように顔を顔をあげた。ハッと息を呑んだかと思うと、曖昧に視線を泳がせ始める。

「やっぱ、ケバ子になんか言われたんだな。」

コクリ。彼女は浅く頷いた。

何を言われたかまで尋問する気はない。
どうせろくなことじゃないのだから、わざわざイオナを傷つける必要はない。ここはなんとなく話を流そう。ゾロはそう考えたのだが、彼女は言う。

「けど、別に、それは理由じゃない…。」と。

「ん?」

「ゾロは相手の何を知れば嫌になる?」

「なんだよ。急に…」

突然、泣きそうな顔で訊ねられ、言葉に詰まる。たしかにエリカは、『イオナが気にしているのは幻滅されることだ』と言っていた。

けれど、まさかこんなタイミングで切り出されるとは。たじろぐゾロをみて、イオナは複雑そうな表情を俯けた。

「いや。ごめん。なんでもない。」

「なんでもないってことはねぇだろ。」

「もういいの、大丈夫…」

「イオナ。」

ゾロは真っ直ぐに彼女を見据えたまま、マグカップを口に運ぶ。すでに冷めた珈琲は風味をずいぶんと失っていて、苦味ばかりが際立っている。

「…ゾロは聞いたの?ケバ子さんから…いろいろ。」

「いや、アイツからは何も。だいたい話しかけられてもねぇしな。」

あまりに慎重なもの言いをするので、ゾロはあえて軽い調子で返事をした。そのせいもあってか、顔をあげたイオナの表情は複雑そうだ。

「じゃあ、なんで…」

「一人いるだろ。お節介で、ハチャメチャで、そのくせ筋だけ通そうとするヤツが。」

「エリカ…」

府に落ちたのだろう。イオナはやはり複雑そうな表情のまま、それでもどこか安心したような様子で小さく息を吐く。

「言いたくないことは言わなくていい。俺はめんどくさがりだからな。いちいちほじくり返してとやかく言う趣味はねぇよ。」

「めんどくさがりだったの?」

「まぁな。」

返事をしつつ、ぐっと伸びをしてみた。イオナは疑うような目を向けてくるが、めんどくさがりの基準なんて千差万別だ。

「どこまで知ってる?」

「なんとかっていうbarに通ってたってことと、前の彼氏がストーカーってとこまで。」

「そっか。」

「くよくよ悩んだってしょうがないだろ。変えようがねぇんだから。最悪、忘れりゃいいんだよ。」

「うん。」

イオナは小さく頷く。本当に納得してるか?と聞きたくなったが、しつこくすれば嫌われかねない。話題を変えようと考え、視線を泳がせていたゾロの視界に壁掛け時計が入った。

長針は12を、短針は5を指している。

「もうこんな時間だったんだな。」

「5時…」

「大学あるんだろ?寝ないとしんどいんじゃねぇの。」

時間を自覚すると妙に眠たくなってくる。緊張のピークが去ったせいかもしれない。もう一度大きく伸びをした後、立ち上がろうとしたゾロは、自分の耳を疑った。

「シャワーしてくる。」

「はい?」

「寝る前だから、シャワーを…」

「あ、いや。マジか…」

この部屋に来るまでは"ある程度"の覚悟はできていた。そうなる可能性も見込んでいたし、決してなんの考えもなく部屋にあがった訳じゃない。

でもそれは雰囲気の話であり、「誘う」「誘われる」の話ではなかった。なにより、ゾロはイオナが"そういった関係になることに抵抗を感じている"と考えていたため、この状況は予想外だった。

「ゾロの着替え、スウェットあるよ。私のだから小さいけど」

「いや待て。俺は…」

「泊まらないの?」

「いや、つーか、泊まっても大丈夫なのか?」

「だって、ゾロは帰れないから…」

淡々としていたイオナがここで初めて顔を赤くした。「違う!そういう意味じゃなくて…」と両手を顔の前でブンブンと振る。

「違うの。別に、泊まってほしい訳じゃなくて…」

「泊まってほしいならそう言えよ。」

「違う。だって…」

必死に否定するイオナが可愛くて仕方ない。

どんな鉄面皮を被っていても、取り乱すことはあるらしい。実際、イオナは笑うときは盛大に笑うのだから、それはなんらおかしなことではない。

ただ、恥ずかしそうにする様子はすごく印象的で、グッと来るものがある。

「いいからシャワー行ってこい。勝手に帰ったりしねぇから。」

そう言った後、もう一度カップを口に運んだのは、綻んだ口元を隠すため。イオナは「もう!」と真っ赤な頬をぷっくりと膨らませ、立ち上がる。

部屋を出ていくときに言い放った「ゾロのばか!」は、とんでもない破壊力があった。





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