下世話な激励
イオナは心ここにあらずのまま、入店案内を済ませる。どんなに気を紛らせようとしても、客がポツポツしか来ないのだから仕方がない。
─失念していた。
今するべきことに必死で、過去にまで気が向かなかった。自分の愚かさには気がついていたけれど、それをゾロがどう思うかまでは考えていなかった。
(馬鹿だ。私は馬鹿だ。)
勝手に期待して、舞い上がって、傷心して。ずっと昔に諦めて、捨てたはずなのに、知らず知らずのうちにまた期待して、欲しがって。
今にも泣き出してしまいたい。泣いて、泣いて、泣いて、また全部を捨ててしまいたい。あの頃みたいに切り捨てて。なにもかもから心を切り離して─
「何、葬式みたいな顔してんのよ。」
突然声をかけられ、イオナはビクッと身を震わせる。
いつの間に現れたのか、気がつけばエリカは隣に立っていた。彼女は呆れたような顔をしていたかと思うと、すぐに表情を改めて、手をパンパンさせながらベテラン教師みたいな口調で言う。
「せっかく可愛くしたのに台無しじゃない。ほらほら、愛想笑いの一つも覚える。」
そんな気分じゃない。イオナはあえて彼女の言葉には返事をせず、「フロアの仕事は?」と問いかけた。
「ケバ子に代わってもらうことにしたの。」
「もらうって…」
「事後承諾?強制執行?とりあえず、これから24時までは私がフロント。ついでだけど、イオナには私の代わりにラストまで頑張ってもらおうと思って。」
「ついでって言葉の使い方間違ってるよ。」
悪びれた様子もなく、勝手な提案を、さも決定事項のように口にするエリカに、今度はイオナが呆れ顔をする番だ。
「そう?よくわかんない。けどあれよ。私も迷惑してるのよ。労働時間減らしたら、給料減っちゃうし。でも、ゾロがあんたの私服姿を拝み足りないって感じだったから─」
「そう。」
ゾロの名が出た途端に、イオナの表情が曇ったのをエリカは見逃さない。もとより明るい顔をしていなかったのだから、その変化は僅かだったのだが、それでも圧倒的な負の感情が溢れだしていた。
「ゾロが言ったの?ビッチな女は死ね!って。」
強い口調で放たれた突飛な台詞に、イオナは驚いた顔をする。どうして知っているの?とでも言いたげなリアクションだ。エリカは返事を待たずに続けた。
「言ってないでしょ?もしそんなこと言ったなら、それはそれで幻滅でしょ?アイツそんなキャラじゃないし、ちょっとキモいでしょ?だいたい、過去のことでウジウジ言うような男は、十中八九包茎よ。包茎じゃないならインポよ。」
励ましてくれている。それがわかったからこそ、とんでも下品な台詞に対して、なにも言葉を返せなかった。下唇を噛み、苦笑いをこらえるイオナに対して、彼女は更に続ける。
「少なくとも私はあんたを否定しない。あんた自身が後悔してても、あんた自身が否定してても、私はそれ以上に肯定する。だから胸張んなさいよ。」
それまで露骨におかしなことを言っていたせいで、後半の台詞がすごくいい言葉のように聞こえた。イオナはここでやっと微笑んで「ありがと。」と小さくお礼を言う。
「あんたってセコいわよね。守ってくれる奴がいる。私が陰口言われてたら「しょーがない」とか「ざまぁ」とか言われんのに。何よ。私だってか弱き乙女だっての。」
「まずは下世話な話をやめようか。」
「は?こないだまでセックスセックス言ってたイオナにだけは、言われたくないんだけど。」
「あぁ、そうだったっけ?」
「なにしらばっくれてんの?もともと、アンタの目的はゾロとエッチすることだったでしょ?なに?アイツにバラしても良いわけ?」
「良くない。言わないでよ。」
「じゃあ口止め料として、サンドウィッチとフラペチーノ奢んなさい。」
「今度ね。」
冗談半分のタカり発言を笑って聞き流したなイオナは、ゾロがすべてを知っていることも、この状況を疎ましく思っていることもしらない。ついでに言うなら、エリカが同様の要求を、ゾロに対してもしていることを知らない。
そんなやりとりの後、一息ついたところでイオナは切り出す。
「でも、もし軽蔑されたら─」と。
部屋にあげてしまうほど、自分を変えたいと思ってしまうほど、好きになった人。無意識に心を開いてい相手であり、すごく特別な人。
その人に軽蔑され切り捨てられる、嫌悪され拒絶される未来は想像したくない。
不安げなニュアンスを含む彼女の口調にエリカは「大丈夫だって。」と励まし、いつもの調子で続ける。
「そん時は「あぁ、コイツは包茎だったんだ」って諦めな。」
「それは─、いや。うぅん、なんでもない。」
相談する相手が悪かった。一瞬、心の内の全てを吐露してしまいそうになった自分を恥ずかしむ。真面目な相談はエリカには向いてなかったのだ。
……………………………………………………………………
休憩から戻ったイオナは、シフト希望を記入するプリントを持ったままフロントへと戻った。大学の講義のスケジュールと照らし合わせる程度で、これといった予定はない。
そのため希望は特になく、せいぜい出勤日数の制限を記入する程度のつもりだったのだが、それを知ったエリカは不思議そうな顔をする。
「あれ?ほとんど白紙?なんで?」
「いつもこんなだけど…。」
「ほんとに予定ないの?」
イオナはコクりと頷く。大学にも友達はいるが、彼氏だ、バイトだ、と皆忙しい。サークルの飲み会や、友達うちでの女子会なるものも定期的に開かれてはいたが、基本的にそのすべてに不参加だった。
理由は簡単で『めんどくさい』から。
浅く狭い人間関係。それが彼女にとっては楽であり、痛手を追わないための自己防衛でもある。
半年以上、連続して断り続けているにも関わらず、今だ誘ってくれるのは何故なのか。そこに若干の不信感を覚えてしまう自分に嫌になりながらも、イオナは一定の距離感を保ち続けていた。
エリカはしばらく紙を眺めた後、まるでそれが自分のものであるかのように折りたたみ、ポケットにしまってしまう。
「ふーん。じゃあ、これは私が出しとくから。」
「なんで?」
「自分の出すのも、あんたの出すのも一緒でしょ?なんか問題ある?」
「別に。」
釈然としない。なんとも言えない違和感を感じながらも、イオナはそれを取り返そうとしなかった。悪戯されたところで困ることはない。
「それより休憩どうだった?」
好奇心でどろどろのエリカの声に、イオナは引き継ぎノートを書いていた手を止め、めんどくさそうに眉を寄せる。
「どうって最悪だったよ。」
「へぇ、どの辺が?」
「ずっと泣いてた。人の泣き声聞きながらご飯なんて食べらんないって…。」
「うわぁ。御愁傷様だね。」
イオナはやいやいくんのセフレ(?)と一緒に休憩に入った。セフレちゃんは断固としてやいやいくんと休憩に入りたがっていたが、彼があまりにゲッソリしているので、ゾロが気遣い仲裁に入ったのだ。
大好きな人に拒絶されたことと、ゾロの介入、おまけに恋敵?と一緒に休憩ともあって、彼女は取り乱した。わんわん声をあげて泣いて、何故かイオナにどれだけやいやいくんのことが好きかを熱く語った。
イオナからすればどうでもいい話であり、「頑張れ。」としか言いようがない。ただその単語が地雷だったようで、「余裕ぶらないでよ!」と逆ギレされてしまう。
どうやら彼女は「あんたには負けてない!」と言いたいらしかったのだが、同じ土俵に上がった覚えがないのでイオナはただ困惑するばかりだった。
「あんたとやいやいくんが一緒に入って、ゾロとセフレちゃんが入ればよかったのに。」
「それやいやいくんが提案したけど、セフレちゃんが絶句して、ゾロが即却下した。」
イオナの疲れ果てた返事を聞いて、エリカは呆れたように溜め息をつく。ゾロが提案しセフレちゃんが抗議するならともなく、この場面でやいやいくんが提案、却下をゾロがとなると訳がわからない。
「それで、イオナがずっと泣き声と不満を聞かされてた訳か。」
「うん。まぁ…」
「なに?なんか引っ掛かるの?」
「引っ掛かるって言うか…」
時刻はすでに24時。エリカはあがりの時間だったが、二人はそんなことは気にもせず、フロントでひたすらに話し込む。
ことなかれ主義のイオナが、やいやいくんとそのセフレについての"思うこと"を口にする。
彼女が他人の恋路についてとやかく言うのは非常に珍しいことだったが、それは一重にゾロとのことに対する不安を紛らすためだったのかもしれない。
「それじゃあ、あんたはセフレちゃんが嘘ついてるって思ってるの?」
「いや、嘘じゃなくて…」
怪訝な顔をするエリカに対して、イオナは慎重に言葉を選ぶ。
「重要な部分を間引いて話してるようにしか聞こえないんだよね。なにがって聞かれるとわかんないけど…」
「間引いてる。ねぇ。」
何を考えているのか。エリカは腕組みをして小さく唸った。別に力になりたいとはおもっていないようだが、やいやいくんが本気でどうにかしたいと思っているのなら、どうにかしてやるつもりはあるらしい。ただ…
「でもさぁ、あの女、自分がやいやいくんとくっつけないのは"あんたのせい"だと思ってんでしょ?なら、二人にくっついてもらう方が後々楽なんじゃない?」
結果として、彼女が口にしたのは、どうしたってイオナ側の意見だった。
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