ヤバいときマズいとき
同時刻。
ゾロとエリカはパントリーにいた。やいやいくんについては、件のセフレに厨房に連れて行かれ時間をかけてネットリと言い寄られている。
ちなみに、助けてほしそうな顔をする彼を、二人がスルーしたのにはそれなりの理由があった。というより、ゾロは鼻からの無関心であり、どうするかを決めたのはエリカだった。
「酔っ払ってヤっちゃうのは仕方ないにしても、その後も何度か抱いてんだもん。わざわざちょっとお高いラブホで、女のおごりで。情状酌量の余地がないってヤツ?ほんっとアホよ、アイツ。」
二人きりになった途端にこれだ。ゾロはその話については半信半疑だったが、一応エリカに訊ねる。
「なんでそんなデリケートな話を知ってんだよ。」
「なんでって話してくれたからだけど?」
「誰が…「女って口軽いのよ?」
訝しむゾロを茶化すエリカ。その態度や口ぶりに彼は嫌そうな顔をするが、やはり彼女は気にしない。
「あんたの妙な性癖も、マリ姫様の小さなお口から白日の下に晒されることになるかもよ。」
「ねぇよ、んなもん。」
「そうなの?私はてっきりそれのせいで別れるの拒んでたのかと思った。」
「お前、本物のばかだろ。」
とぼけた顔をするエリカに向けられたジト目は、簡単にスルーされる。どこまでが本気なのか、面と向かって会話しているゾロにもわからない。
「まぁ、いいのよ。あんたがおっぱいフェチだろうと、お尻フェチだろうと私には関係ない訳だし。」
「勝手に人の性癖を決めるな。」
「問題はイオナがそれを受け入れられるか。あんたの歪んだフェチズムに対してどれたけ順応できるか。じゃない?」
「じゃない?じゃねぇよ。このバカ女。だいたい胸やケツが好きなヤツなんでいくらでもいるだろ。そんなのを歪んでるとは言わねぇよ。」
「なに言ってんのよ。ただ好きなだけじゃない。それに対する執着について…」
この会話に対するお前の執着のが異常だろうが。
胸中で突っ込むと同時に「ねぇわ。」と否定の言葉を口にする。彼女は「素直じゃないわねぇ。」などとのたまうが、この会話を続ける気はこれ以上ない。
「つか、イオナにフロントやらせといていいのかよ。」
「まあ、よくはないんじゃない?」
「だったら…」
「心配な気持ちはわかるけど、手助けしすぎちゃダメでしょ。私たち保護者じゃないんだし。イオナが助けを求めてきたならともかく、こっちからは…ゲホッ」
先ほどまで軽口を叩き続けていたエリカが、突然咳き込んだ。それが一度だけならともかく、タンの絡むような咳を、ゲホゲホと繰り返す。
「大丈夫か?」
「ゲッ、ゲホッ、ゴホン、大丈夫、よ。ゲホッ」
「水、落ち着いたら飲めよ。」
「薬飲んで、ケホッ、なかった。ゴホン、かも…」
「なにやってんだよ。」
大きく噎せているのにも関わらず、エリカは笑顔で「平気平気」と繰り返す。そんな彼女に歩み寄り、飲み水を手渡したゾロは、自然な動作で彼女の背中をさする。普段なら拒みそうなものだが、エリカは嫌がらなかった。
「薬あるなら飲んどけよ。酷くなったら困る。」
「んあー、そうする。」
なんとか咳の収まった彼女は、喉を労っているのか変な声で返事をし、下だるそうにパントリーを出ていく。咳こそ出ていないが、まだ呼吸は苦しそうだった。
………………………………………………
ロッカースペースで吸入薬を吸い、ピルケースから取り出した薬を飲み終えたエリカは、その場から出るに出れなくなっていた。
というのも、数分の差で休憩室にやってきたケバいスタッフともう一人の女スタッフがロッカーの向こう側でイオナの噂話に花を咲かせているのだ。
『えぇー、そんな風になるとか意外。なんて言ったの?』
『別に。あんたみたいなビッチ、相手にされないんじゃない?って言っただけ。あんな、あっさり落ち込まれると思ってなかったから、こっちも毒気抜かれちゃって。傷つきたくないなら店に戻れば?って声かけちゃった。誰にも言わないとか言って期待もさせちゃったし…』
『うわー。酷なことするね。って言っても、あの話をゾロさんが真に受けたら、イオナちゃんなんて…』
こそこそするわけでもなく、堂々と話しているのは誰かに聞かれることを懸念していないからだろう。もしくは、もし聞かれたとしても問題ないと考えているからなのだろう。
そう考えたエリカは、甘くみられた、見くびられた、と更に腹を立てる。
薬は飲んだばかりで本調子ではない。少し前に吸入器を使ったからと言って、元気になるわけじゃない。むしろ喉は最悪だ。
ただその最悪のせいで更に苛立ちが強くなるのだから、どうしようもなかった。
「他人の不幸で飯がウマいって言葉は、あんたたちみたいな屑にはもったいないわね。」
突然ロッカー側から顔を出したエリカに驚いた二人は、なんとも言えない表情で顔を見合わせる。
「誰の話してたかは知らないし、聞かないけど、敵に回す相手は考えた方がいいと思うのよ。確かにあんたたちって、箸にも棒にもかからないって感じの同情したくなる系ブスだけどさ。同情分差っ引いても許されないんじゃない?」
別に脅迫しているつもりはないのだが、喉の都合上声がいつもより低くなる。そのせいで、異常なまでの威圧感がエリカから放たれている。
「まぁ、楽しくやんなさいよ。私はみてるから。馬鹿が影で暗躍したところで、誤魔化しなんて効きっこないのよ。って、別にあんたたちのこと言ってるんじゃないから。」
さっき、ケバ子がイオナにしたように、手をヒラヒラさせながらその場を後にするエリカ。その仕草はたまたま被っただけだったのだが、ケバ子からすれば「すべてを見られていた」ような気がして、気が気じゃない。
スタッフの二人は顔からは余裕が抜け落ち、代わりに嫌な汗が滲んでいた。
……………………………………………………………
パントリーで暇をしのいでいたゾロは、心配げな表情で時計を見る。エリカがここを出てからすでに10分が経過していた。
ほんとに大丈夫なのかよ。
彼女の持病が軽いものでないことを知っているだけに、なにかあったのでは?と疑ってしまう。 入院したこともあったし、薬が手放せない生活であることも知っている。
煙草の煙が漂う飲み会や、息のあがる性行為に夢中になるのは自殺行為のようにも思えるが、ゾロにはそれを諭す権限はなかった。
だからこそ、ただ心配する。
何かあってからでは遅いからと。
しかし、それは杞憂に終わった。
エリカは二枚のプリントを左右の手に持ち、ヒラヒラさせながら戻ってきた。
一枚は彼女のもの。もう一枚はゾロに向かって差し出される。
「来月のシフト希望だって。」
「おう。それより、喉はもう大丈夫なのか?」
「平気よ。乳児の時から向き合ってんだから。ヤバイときと、マズいときの区別くらい…」
「いや、それどっちもアウトだろ。」
「いいえ、ヤバいとマズいは違いますぅ〜」
いつもの通りの口調でゾロを茶化すエリカに、ゾロは頬を緩める。本当に大丈夫な訳ではないのだろうが、そうすることで本人が「自分は健康体である」と思い込めるのならそれでよかった。
「違いがあるのはわかったよ。で、」
「私、フロントを入るわ。だからケバ子のあがる10時まであんたが"我慢"しなさい。」
「は?イオナをこっちに寄越せよ。」
「なんて理由つけんの?」
「それは…」
ゾロは口ごもる。イオナを近くに置いておきたい気持ちを、全面に出しすぎた。しかも相手はエリカなのだから、バカを言ったと言わざるを得ない。
「今日、イオナにシフト代わってもらうから。あの娘送ってってあげて。きっと元気ないし…」
「何言われたんだよ。」
「さあ。噂とは違う内容であんたの名前出した、ってことくらいまでしか。」
「俺の名前?」
「これは憶測だけど、ケバ子から言われたってこと自体にはなにも感じてないと思うのよ。性格上ね。きっとあの娘が落ち込んでんのは、一重にあんたから幻滅されんじゃないかって思ってるから。」
「幻滅ってなんだよ。」
「それは自分で考えてみて。もしわからないなら、イオナに聞けばいい。ここで私が励ましたって意味はないし、もっと言えば、この件について手を出す気は一切ないから。」
エリカはまるで他人事のように淡々と言う。いつもより声が掠れがちなのは、呼吸が普段のようにはいかないからだろう。
それでもなんだか冷たいように感じる。ゾロが「あぁ、そうかい。」と返事をしたところで、彼女の顔が変わった。
覇気のない気だるそうな表情に、光が差したかのように意欲がみなぎり、自尊心に満ちた挑発的な笑顔となる。
やる気スイッチが入った証だ。
「それに、私の喧嘩がまだ終わってないしね。」
毒を以て毒を制す。
その言葉がピッタリかもしれない。
「あんま盛大にやるなよ。イオナが知ったらそれこそ落ち込むぞ。」
「なに言ってんの?私は私の喧嘩をやるだけ。イオナなんてこれっぽちも関係ないから。」
身近な女から「喧嘩する!」と楽しそうに宣言されることとなるとは。コイツとだけはイザコザは御免だな。ゾロはそう思い、苦笑いする。
「まあ、アレならまた奢ってよ。」
「あぁ。わかった。」
呆れたような彼の返事に、「やったぁ、ラッキー。」と小さく呟いたエリカは踵を返し、パントリーを出ていく。
イオナのいるフロントに向かうのだろう。
そして、彼女の背中が見えなくなったところで、ゾロは改めて気がついた。エリカがフロントに向かうということは…
「マジかよ。」
ケバ子と会話しなくてはならないかもしれない。その事実に直面したゾロは、不快そうに眉を潜めた。
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