リフレッシュ
冷やかし混じりの視線を向けてくるエリカに背を向け、ロッカースペースに入ったイオナが目にしたもの。
それは─
「う、うわっ!」
─と情けなく声をあげる、絶賛お着替え中のやいやいくん。せっかくカーテンで仕切れる個室があるのに、彼は何故かロッカーの前で堂々と服を脱いでいた。
「あぁ、大きい声出してごめん!」
「それはいいけど…、ズボン履いたら?」
「あっ、うぅ、ごめん。」
よほど恥ずかしいのか、バタバタとズボンに足を通そうとするが、その焦りのせいでよろめいている。
制服のシャツの前を開いたまま、ズボンをすんなり履けずに四苦八苦。そんな彼のパンツはボクサータイプで、ずいぶんとお尻が小振りだ。なにより、その薄っぺらでありながらほんのり筋肉に覆われた胸板が"イマドキ"の大学生らしい。
イオナはそちらをみないようにしていたが、彼が勝手に賑やかで居続けることから、着替えに手間取っていることは嫌でもわかる。
あまりにテンパっているようなので、「更衣室使ったら?」とさらに声をかけてみた。
どうやら彼はそこでやっとその存在を思い出したらしい。すっとんきょうな声をあげながら、慌ててカーテンの向こうへと消えた。
静かになったロッカースペースで、イオナは自身のロッカーからクリーニングされた制服を取り出す。その時、ポッと頭に浮かんだのは風呂上がりのゾロの姿。
均等の取れた筋肉に覆われた胸板。ほどよく日焼けした肌に、堂々とした立ち振舞い。視覚からでもその体温は伝わってきて、見惚れてしまうほどに情欲的で…
思い出すだけで胸が熱くなる。眠っていたところに潜り込んだとはいえ、あの身体に一度はギュッと抱き締められたのだ。その瞬間の動揺は、一日経った今でも鮮明に思い出された。
沸き上がった熱は、身体の中心から四肢の先まで伝わる。無意識のうちに制服をギュッ抱き締めてしまっていたイオナは、その"生暖かな"記憶を吹っ切るように首をブンブンと左右に振る。
それで、高鳴りが遠ざかるわけではないが、なにもしないよりはマシだった。
速まる鼓動を押さえ込むように、ロッカーの前でしゃがみこんだイオナ。深呼吸を繰り返すうちに、やいやいくんが更衣室から出てきた。
「あれ、イオナちゃんっ、あ、その、まだ、着替えないの?」
「あぁ、うん。これから…」
「そっか。ならよかった。うん。」
ためらいがちに放たれた問いかけに、曖昧な返事しかできない。それに対して、彼もまたぎこちない。
不覚にも「なにがよかったんだ」と突っ込みたくなったが、ちょっと肌をみられたくらいで照れ腐っているやいやいくんがちゃんと答えてくれるかすら怪しい。
イオナは抱き締めた制服をそのままに、無言のまま立ち上がる。立ちすくむやいやいくんの隣を通り抜け、更衣室に入ろうとしたところで、突然呼び止められた。
「あのさ、イオナちゃん!」
「なに?」
イオナが振り返ると、そこには相変わらず顔が真っ赤なままの彼がいた。予想外だったのは、その背後にエリカがいたこと。ニヤニヤしている様子から、なにか企んでいるのだろう。
それに気がつかないやいやいくんは、恥じらいつつも言葉を続ける。
「いや、別に、…なんにもないわけじゃなくて…?」
台詞の途中、彼はイオナの視線が自分を捉えていないことに気がついたらしい。視線を追うようにして恐る恐る振り返り、エリカの姿を見た途端「うわぁっ」と心底驚いた風に声をあげた。
「会話筒抜けだからねぇ、あんた。イオナになんかやったら私がチクるから。」
「チ、チクるって、誰にだよ。」
「誰かしら。とりあえず、私はアンタよりアイツ寄りかな。まぁ、アイツのことも好きじゃないけど。」
「だからアイツって…」
二人はヒソヒソと会話を続ける。イオナの耳にはその会話のうちの半分以下の内容しか届いていない。
目の前でヒソヒソ話をされていい気になる人間がいるわけがなかった。眉を潜めたイオナは、不機嫌そうに口を開く。
「ねぇ、二人はいったいなにを…」
「いいから。イオナちゃんは着替えて…」
「あぁー。まさかアンタ、覗く気なんでしょ?」
「だからエリカちゃんはなんでいつも…」
「私が悪いの?うそ。悪いのはアンタじゃない。」
「だから俺はなんにも…」
「してる。覗こうとしてる。」
「してない!」
どっちが女の子なのかわからない。男の先輩にからかわれた女子みたいに、表情をコロコロ変えながら抗議するやいやいくん。それがよほどおもしろいのか、エリカは楽しげにからかい続ける。
イオナは女王様のターゲットとなった彼を可哀想に思いながらも、なんの助け舟も出さず、無言で更衣室へと足を踏み入れた。
…………………………………………………………
日付の変わる少し前。イオナとエリカはフロントで暇をもて余していた。本来ならばフロア業務のエリカがこの場にいるのも、一概に店が暇だから。
エリカは施したばかりのシンプルなネイルを確認しながら、投げやりな口調で言う。
「イオナってほんとに気がついてないの?」と。
なんとなく彼女の言いたいことは理解していたが、イオナはあえて「なにが?」と眉を寄せる。その態度をどう思ったのか、エリカは手元からイオナへと視線を動かし、あからさまに呆れた顔をした。
「やいやいくん、あんたのこと好きっぽいよ?」
「あぁ。それなら知ってるけど…」
「知ってるけどって、ちょっと待ってよ。」
「なに?」
「知っててなんであんな態度取れるの?」
イオナはそこで小さく首を傾げる。"あんな態度"というのがどれのことを指しているのか分からなかったからだ。
「気がないならもっと素っ気なくするとか、受け入れるつもりなら愛らしく対応するとか。いろいろあるでしょ?みんなとおんなじ扱いしてたら、アイツだって諦めるに諦められないと思うけど。」
「うぅーん。」
これ以上素っ気なくは出来ないんじゃないか。イオナはぼんやりとそんなことを考えるが、その疑問をエリカはすぐに打ち砕いた。
「あんたはもともと愛想のないいイメージなんだからちょっと声かけたり、微笑んだりしたら相手は調子に乗るの。」
「へぇ。」
「言い寄られていい気がしてるならともかく、アイツもいろいろあるから。どうでもいいなら素っ気なくしときなさいよ。どこでも怨み買うかもわかんないわけだし…」
エリカはスタッフ事情にいろいろ詳しい。この発言からして、やいやいくんにはスタッフ同士の"なにか"があるのだろう。
もとより、勝手にヤキモチを妬いてゾロに食って掛かったおバカな男の子だ。もしかしたら恋愛的なあれやこれやで女スタッフとなにかあったのかもしれない。
イオナは一見口うるさく思える友人の忠告に「そうだね。」と短く返して、雑務を始めたフリをする。
やいやいくん以外のスタッフたちも、ボブヘヤーになったイオナを見た途端、驚き倒していた。
雑誌を勧めてくれた女スタッフは、「やっぱり私の見立て通り!」と大喜びで、男のスタッフたちはなんだかんだと褒めちぎる。
完全に萎縮したイオナは、無言のまま曖昧な表情を浮かべるばかり。なんとかエリカその場を納めてくれたが、あまりいい気はしなかった。
それどころか、男のスタッフに髪に触れられそうになった時"怖い"すら感じていたくらいだ。
「イオナってさ、昔、なんかあったの?」
「え?」
「いやぁ、なんとなくだけど。」
まるで思考を読まれいたのかと思うほど、的確なタイミングでなされた問いかけ。心臓が大きく跳ね、尋常ではないほどに思考が焦る。
「…なんにもないよ。」
イオナとしては、なんとか取り繕ったつもりだった。顔にだって出していないつもりだった。それでも、言葉を絞り出すまでのコンマ数秒の溜めで、エリカは何かあるなと勘づいた。
「ったく、世話の焼ける友達なこと。」
彼女はそう呟くと店の電話の受話器を手に取り、緊急用として常備されいる電話帳を開いた。そして、そのうちのひとつ、とある番号に電話し始めた。
「なに?」
「まぁ、待ってなさいって…ん?もしもし。なに?私じゃダメなわけ?──なによ、その言いぐさ。つまんない奴。もういい。」
初っぱなから喧嘩口調かと思えば、早々に受話器をイオナに押し付ける。
エリカの手からそれを受け取り、耳に当てたイオナは受話器越しに聞こえてきた声に動揺した。
『おい、エリカ?お前一体…』
ゾロだ。そうわかったとき、おもわず「なんで」と呟いてしまった。そこで彼も電話の相手が変わったことに気がついたらしい。
『─ん?イオナか?』
「そうだけど…」
『お前ら今バイト中だろ。なにやってんだよ。』
鼓膜に触れる、呆れたような、それでいてずいぶんと優しく響く声。今、どんな表情をしているのかは電波越しでもわかった。
瞼の裏に写るゾロの困ったような笑みのせいで、さらに胸が熱くなる。
『おーい。イオナ。聞こえてんのか。』
「あぁ、うん。電波ばっちり。」
『電波関係あるか?てか、そっち固定電話だろ。』
「こっちは固定電話だけど、そっちはスマホだから。電波関係あるよ。」
『そうか。じゃあ、いいけど…。ってかなんか用があったんじゃねぇの?』
「いや、エリカが勝手に電話始めて…」
通話は顔が見えない分、直接会って話すのとはまた違うドキドキがある。その声の調子から彼のしている表情が勝手に頭に浮かんで、胸が熱すぎるくらいにポカポカしてきた。
『あぁー、そうか。じゃあ、切っても大丈夫んだな。』
「うん。たぶん…」
『たぶんってなんだよ。』
「いや、ちょっと待って。確認…」
『あぁ、しなくていいって。どうせなんの用事もないんだろーし。イオナ、とりあえずバイト頑張れよ。』
「うん。とりあえず頑張る。」
『自分でとりあえずって、お前な…』
聞こえてきたのは呆れたような笑い声。インカムで聞く感じの悪い声とは異なる優しい口調に、思わず口元が緩んでしまう。
「なら、そこそこ頑張ることにする。」
『なんだよ、そこそこって。まぁ、なんでもいいけどサボるなよ。今みたいに。』
「うん。」
『んじゃ、もう寝るわ。おやすみ。』
「うん、おやすみ…。」
耳から受話器を外すのを惜しく感じた。それくらいゾロの声は優しくて、ずっと聞いていたいくらいに甘い。けれどすでにそれからは、プープーッと通話の絶たれた音しか聞こえなかった。
受話器を電話に戻したところで、イオナはやっと気がついた。エリカがやけにニヤニヤしていたことに。
「恋する乙女みたいな顔しちゃって…」
「別に、してないよ。」
「してるしてる。」
「からかわないでよ。」
茶化すエリカにせ背を向けるイオナ。今だ心臓はバクバクしているし、顔だって熱い。自分が"女の子"をしてしまっていることは、自分自身が一番理解していた。
だからこそ、「ゾロはまだ彼女と別れたばっかなんだよ。そんなんじゃない。」と墓穴を掘るようなことを続けて言ってしまった。
「別に好きなるのは勝手だと思うけど。」
「え?」
「付き合う、付き合わない。は別として。勝手に恋して、浮かれて、ときめくのは悪いことじゃないと思う。私はね。」
「それでも…。」
「でもでもだってしてても進展はないわよ。他の女に持ってかれて苦虫噛むくらいなら、とっとと寝ちゃいなさいよ。抱かれたいんでしょ?」
あまりの直球っぷりにイオナは赤面する。「そんなんじゃない!」と声を荒下てしまったが、それが逆にエリカを喜ばせた。
「好きなら胸くらい張っときなって。それでなくてもおっぱい小さいんだから。」
「それとこれは違うでしょ!?」
正直な話、声を聞いてしまったせいか、ゾロに逢いたくて仕方ない。髪型や服装をみてどんな反応をしてくれるだろうか。あわよくば、またあの体温に触れられたなら。
ムッとした表情をしながらも、イオナは胸中でエリカに感謝する。耳にはまだゾロの声の響きが残っていた。
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