一途な君のこと | ナノ

初仕事

大学の講義を受けた後、しばらくカフェで時間を潰したイオナはバイト先へと出勤する。

誰もいない休憩室に向かっておはようございますと声をかけるのは、更衣室に誰かが居たときのため。

何度か男性アルバイトが、パンツ姿でクリーニングされた制服を取りに出てきたことがあり、何故か見せつけられたイオナより男性アルバイトの方が恥ずかしそうにすることがあった。

恥ずかしそうにするならそんな格好で出てくるなよとも思ったのだが、彼らにも彼らの事情があるのだろう。

見せつけられるのも、照れられるのもめんどくさいので「ここにいますよ」の意味を込めて、挨拶をするのだ。

イオナは掲示板に書かれたシフトを確認し、自分が今日からフロアを担当することになっていたことを思い出す。

ゾロと会えることばかりを考えていたため、浮かれてしまっていたのかもしれない。いや、化粧にかかった時間を思えば、確実に浮かれすぎていた。

化粧に時間が掛かった理由は、合間合間でぼんやりしていたから。そのためメイクが普段より濃いわけでも、薄いわけでもない。

むしろ、時間が足りなくなり慌ただしく済ましたので、普段よりちょっと雑なくらいだ。

イオナは普段からナチュラルメイクよりは華やかに見えるメイクを施している。髪色も明るめではあるが、そこまで派手すぎないものを選んでおり、性格もどこか冷めているため、実年齢より歳上に見られることが多い。

それを彼女は自覚してやっていたので、バイト先や大学では同世代の異性を牽制していた。

理由は簡単で、関わるのがめんどくさいから。

大学やバイト先で人間関係を崩してしまうのが、なによりめんどくさい。

それに合わせて変な噂が広まったり、嫌がらせをされたりするのは精神的に堪える。

そのせいで生活環境を改めなくてはならなくなるリスクを思う、そのめんどくささは計り知れなかった。

出会いにはbarを利用し、プライベートではなるべく人とは関わらない。

イオナはそう決めていたし、そのスタンスを崩すつもりはなかった。

というのに、たった一人の男のことで浮かれている。

そんな自分に彼女は少し戸惑っていた。

ロッカーの扉についた鏡でいつも通りの自分であることを確認し、制服に着替える。髪の毛を束ね終わるまでに5分とかからず、ずいぶんと時間には余裕があった。

休憩室へ戻ったイオナは、とりあえずタイムカードを機械に通す。これを忘れると給料が出ないのだからたまらない。

まとめblogでも確認しようかとスマホを取り出すが、大量の着信履歴と未読メールの件数を目にした時点でその意欲は失われた。

そこらに置き去りにされている雑誌を捲ってみたり、スケジュール帳を確認してみたり。とにかくやることがない。やることがない上に、気持ちが落ち着かないので、なんだかすごくソワソワした。

ここまで気持ちが浮き足立つのは、大学受験をすっぽかしたあの日以来だ。

(私らしくない…)

少しだけムッとしていた。

浮かれている自分にも、瞼を閉じる度に甦るあの笑顔にも。

昨晩だって殆ど眠れなかった。講義中も頭から離れないし、ほんとにほんとに…

イオナは胸中で不満を漏らしながら、机に突っ伏す。憎らしいやらなんやらで、この気持ちをどこにぶつければいいのかもわからない。

(いい加減にしてよ…。)

瞼を閉じたその先にいる彼に不満をぶつけているうちに、イオナはウトウトし始めていた。

○●○●○●○●○●○

「起きろ。時間だぞ。」

肩を揺すられ目を覚ましたイオナは、自分を起こしたのがゾロだと気がついてハッとした。

涎が出ていないかを確認しながら、身体を起こした彼女を見てゾロは苦笑する。

「ほっぺた跡ついてんぞ。」

「え?」

「じょーだん。ほら、一から教えてやるから準備しろ。」

からかうみたいに笑う彼をよそに、イオナはグッと背骨を伸ばす。ついでに大きな欠伸まで出てしまった。

「暇だといいなあ。」

「暇な間に仕事覚えろよ。」

「はぁい。」

どこか噛み合っていない会話をしつつ休憩室を後にする。どうやら他のスタッフがくるまで、少しだけ時間に余裕があるらしい。普段はすれ違うだけの昼間シフトのスタッフに会釈しつつ、掃除の手順を説明してもらう。

メニュー表の全ての面を拭かないといけない事実に驚愕し、機械の調整までやらなくてはならないことに落胆した。

めんどくさい。ひたすらめんどくさい。

教えてくれるのがゾロじゃなければ、今ごろ不満を漏らして休憩室にトンボ返りしていたことだろう。

厨房に向かう途中、ゾロからマニュアルを手渡される。ペラペラと捲っているとところどころとてつもなく綺麗な字で書き込みがしてあった。

「これ、ゾロが書いたの?」

「いちいち言わなくてもわかるだろ。」

「意外と字、綺麗なんだね。」

「意外ってなんだよ。」

会うまでは落ち着かなかったのに、いざ顔を合わせてみると普通だった。それどころか、相手を茶化すような口ぶりから、心の余裕が伝わってきて、すごく話しやすかった。

昼間シフトのスタッフたちが退社した辺りから、入店ラッシュが始まり雲行きが怪しくなってきた。夜シフトの人は確かに出社しているのに、全く会話をする機会がない。

もともとフロント業務しかしたことのなかったイオナは、フロアスタッフの顔も曖昧なので自己紹介くらいは…と考えていたにも関わらず、である。

入店作業からファーストオーダーを出し終えたところで、ひとまず修羅場は乗り越えた。目まぐるしく動き回るゾロをポカンと見届けるばかりのイオナだったが、それでも客室を行ったり来たりするだけでクタクタだ。

「いつもの十倍疲れた。」

「普段どんだけ仕事してねぇんだよ。」

「それは秘密かな。」

実際はフロントだって忙しい。ただ、基本的に動くことは少ないので、そこまで負荷が掛からないというだけ。彼もそれがわかっているのか、それ以上はなにも言わなかった。

パントリーで昼間のスタッフが残して帰った汚れ物を洗っていると、インカムから呼び出しの声がかかる。

基本的に手の空いているスタッフが応答することになっているのだが、接客をしていなければ返事をしなければならないという暗黙のルールがあるらしい。

そのため、《502号室片付けてください》という、フロントからの呼び掛けにイオナも応答しなくてはいけない。

彼女が濡れた手を払ってインカムのマイクのスイッチに触れたタイミングで、一足先にゾロが愛想のない声で「了解。」と返事をする。

それを聞いて思い出した。

「この感じ悪い返事ってゾロだったんだ。」

思わず心の声が漏れ出てしまう。それが聞こえてしまったようで、彼は「ん?」と眉を潜めた。

「内線では明るい声で喋らないと、不機嫌な声に聞こえてるよ。私はすごい嫌だった。」

「るせぇ。」

「それも、インカムで拾ったことある。」

「いちいち覚えとくなよ。」

「いやいや、インカム越しにディスられるとか普通に驚くから。」

ずいぶんと口が悪いのに、どこか温かみを感じるのは、あの電話の声を聞いてしまったからか。それともところどころで見せる、照れ隠しみたいな笑顔のせいか。

二人は清掃用のワゴンを押して502号室に向かう。急ぎではないので一つ一つ確認ながら掃除をすることなったのだが、それがまた面倒だった。

教えられる側のイオナがめんどくさいと思うのだから、教えているゾロはもっと面倒で退屈だと思っているだろう。

「これも拭いとけよ。」

「はーい。」

ゾロから差し出されたメニューを1ページずつ拭いていく。その間に彼は客の忘れ物がないかのチェックをしつつ、ソファの上や床に落ちている細かいゴミを、コロコロを使って取り除いていた。

薄暗い小さな個室で二人きり。

そう考えればなんとなくドキドキさせられるシチュエーションで、彼の筋肉質な腕をみていると胸の奥がじんわりと熱くなる。

(どうしよう。やばい…。)

拭き終わったメニューを並べるイオナの頬にはわずかに赤みが差していたが、なにぶん部屋が暗いので気づかれる心配はない。

キスでも、セックスでも照れたことなど数えるほどしかなく、同じ空間にいるだけで気がおかしくなりそうになる。

(これじゃ盛りの猿じゃない。)

自分がすごく浅ましい人間のような気がして、いたたまれなくなり、デンモクを布巾でゴシゴシと拭く。

機械のボリュームのつまみをいじるゾロの横顔は、やっぱりかっこよかった。

マイクのアルコール消毒が終わり、部屋のドアを閉ざしたところで『502号室まだ?』とフロントから声がかかる。

片付け作業を急かす場合の理由は、入店人数に合わせた部屋に客を入れたいか、もしくは、完全に客室が埋まってしまっているか。

今回はその前者だろうとイオナは考え、「今、終わった。」と無愛想に答えるゾロの隣で余裕をぶちかましていたのだが。

『オーダーお願いします。』

『ドリンク出しました?』

『担当だれ?今、どこまで出せた?何してる?』

《はやくオーダー出して、クレーム入るよ》

突然のオーダーピーク。入店ラッシュとフードオーダーが被らないだけフロントからすればマシなのだが、とにかく揚げ物やフライが出るのが遅い。

キッチン担当のスタッフがいわゆるグズなのだ。

それを補うためにフロアの人間はドリンクを極力早急に出すようにし、客との信頼関係を築く。すぐお待ちしますねと声をかけ、「いつまでもこない」と思われないよう対応する。

そんな気遣えるスタッフであるゾロを、イオナはポカンとみていた。「お前もやれよ。」と半笑いで言われ、「いや、いいよ。」と謙遜してみたら本気で眉を潜められた。

ソフトドリンク用の重たいグラスが8つも乗せられたトレンチを渡された時には、「こんな思いの運べない」と膨れ面をしてしまった。

「仕事なんだからやれよ。」

「やれよじゃなくて重たいよ。」

「いいからはやくしろ!」

普通に考えて、このトレンチを片手で持てている彼の方がおかしいのだ。イオナは無言でトレンチを受け取りグラスを二つのトレンチに分けた。

「みんながみんなゾロみたいなバカ力じゃないから。」

「るせぇよ。」

「持っててくる。ゾロの筋肉バカ。」

「うるせぇつってんだよ。」

忙しいとイライラする。そのためつい口が悪くなるけれど無論本心ではない。

他のスタッフは本気で言い合っていると思ったのか、ヒヤッとした顔をしていた。でも実際ゾロはあまり怒っていなかったし、イオナも彼が本気でドヤしてくるようなら静かにフェードアウトしていただろう。

どちらかと言えば彼もうるせぇを言いたげにしていたので、イオナが乗ってあげたに過ぎなかった。

「やっと終わった…」

そう声を上げたイオナはパントリー内にあるパイプ椅子に腰を下ろす。ゾロはそのそばに新しい椅子を置いて座った。お互いの姿が視界に入るか入らないかの距離。

それでも彼女が意識しないのは、あまりの疲労感に脱力しきっていたから。

鈍いピークが3時間ほど続き、1階から7階までを幾度となく駆け抜けた。ドリンクオーダーはスムーズに出せるのに、厨房担当のスタッフが混乱してしまい料理がストップ。

ゾロが代わりに入り、イオナは初日ながら一人で掃除やらに行かされるハメになった。

時間が掛かるとフロントから急かされるので仕方なく本気で取り組む。クレームが出ればゾロに迷惑が掛かるのではと考えると、丁寧にやるしかなかった。

足も腰も痛くて仕方ない。

パイプ椅子の上で伸びをするゾロへと視線を向けたイオナは、彼の額に滲む汗にドキリとした。けれどそれを持続させるだけの体力がなく、「休日って、どのくらいヤバイの?」と脱力ぎみに訊ねる。

「休日はもっとバタバタするけど、今より人手はあるからな。それに普通はあそこまでフードが溜まったりしねぇし。」

そう言いながら厨房から拝借してきたコーラを口に運ぶゾロ。彼は溜まりまくったオーダーを、ものの十数分であっさり片付けてしまった。

同じようなものばかりが通っていたからだと笑っていたが、機械からベロンと出てくるだけのオーダー票を一瞥しただけで必要個数を把握できるあのスキルは笑い事じゃない。重宝されるべきだろうと思う。

「私はフロントで司令塔やってる方が向いてるかな。」

「上手いしな。」

「へ?」

「指示。イオナのときは今日ほどバタつかねぇ。言っちまえば、順序立てなしで指示されるとこっちもやりにくいんだよ。冷静に対応できない奴とかだと、こっちもモチベーション下がるし…」

実際は冷静なのではなく、いちいち口にするのがめんどくさいので、指示を最小限に減らすようにしているだけだ。

それを分かりやすいと思われていたとは思ってもみなかった。妙なところを褒められたのが照れ臭く、「私のこと知ってたの?」と的外れなことを問うてしまう。

それについてゾロは別段なんとも思わなかったのか、特に変な顔をするでもなく「いつも声聞いてるからな」と答えてくれた。

自分の知らないところで、誰かが自分を評価している。それは当然のことなのに、こうして改めて言葉にされるとむず痒い。そして、嬉しかった。

「フロアの男連中も…いや、なんでもない。」

せっかくいい気分だったのに、よくわからないところで言葉を濁される。

言いかけてなによ。と問い詰めようとしたところで、またインカムから呼び出しがかかり二人は腰をあげた。


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