ドキドキも不安も
ロッカー越しにゾロとエリカが休憩室を後にしたのがわかった途端、全身が震えた。
(ずっと一緒に居たんだよね…)
どうにも緊張で覆われていた感情が、身体の中心から一気に噴き出したらしい。
心臓のドクンドクンという音がやけに強くて、立ってはいられずその場に座り込む。頭ではわかっていた。自分が上手く恋愛を出来ないことは。
それでも心が訴えてくる。
ゾロが好きだと。たまらなく恋しいと。
方向音痴なところも、些細な冗談を言い合えるところも、ほんのちょっとの目配せも、残したラーメンを食べてくれるところも、困ったような笑顔も。
全部、独り占めしたいと思ってしまう。
自分だけが…と望んでしまう。
まだゾロが恋人と別れたばかりだとわかっていながら、そんなことを考える自分は愚かなのだろう。馬鹿なのだろう。
それでも、思ってしまうのだから仕方がない。
(思うだけ。心の中に閉じ込めておくから…)
決して口には出さない、態度にも出さないから、勝手に喜ぶくらいは許してほしい。
ギュッと自分の身体を抱き締めると、目覚めた時に感じた少し高めの体温が思い出され、熱いものが目頭に込み上げた。
……………………………………………………………
なんとか制服に着替え、フロントに立つことのできたイオナはぼんやりと考えていた。ゾロとエリカは何を話しているのだろう、と。
彼女の性格上、余計なことこそ言わないだろうが、それなりのことは言ってしまうだろう。その"それなりのこと"が思い当たらず、また心配は大きくなる。
エリカは馬鹿ではないが、賢くもない。基本的には計算高いが、感情が昂ると理性的とは言えず、感じるがままに動いてしまう節がある。それに伴い、もともとキツい口調が更に酷くなり、言葉選びも汚くなのだ。
ゾロならばのらりくらりと回避しそうな感じもするが…
(喧嘩してなきゃいいけど。)
平穏を望まずにはいられない。
いつものゾロの困ったような笑い顔を思い出し、イオナは無意識に赤面した。
無意識に朗らかな表情を浮かべるイオナ。その隣に立つ、もう一人のフロントスタッフは不機嫌そうにあからさまな溜め息をつく。
そのスタッフはとてつもなく化粧が濃く、さりとて可愛い(もしくは綺麗)とは言い難いギャルギャルしい見た目をしている。本人はイケイケのつもりのようたが、 酷い"使用感"がある。
本来の年齢よりも歳上にみられるとは言えイオナやエリカの二つ上にはとうてい見えず、だからといって大人っぽいやら妖艶とも違う。
残念なギャル。つまりはそういうことだ。
「ねぇ、イオナさんって、もうロロノアさんと付き合ってたりする?」
突然、皮肉を述べるかのような口調で問いかけるギャル。まるで見下すような調子に、イオナは小さく眉を寄せ「なんでそう思うんですか?」と疑問文を返す。
関係を指摘されたことにドキドキするが、それは恋の高揚からくるものとは違う。相手に対する警戒信号のようなものだった。
「昨日一緒に帰ってたでしょ?おまけに今日は送ってきた。それってもうヤッちゃってるってことじゃないの?前から噂も出てたしさぁ。ぶっちゃけ略奪なの?それとも単なるセフレ?」
淡々と、嘲るように吐き出された言葉。普段はいろいろな感情を「めんどくさい」と切り捨てているイオナも、どういう原理なのか、ゾロのこととなると過剰に反応してしまう。
「違う。そんなんじゃない!」
強い口調で言い返すと、相手は少しだけ驚いた顔をする。と言っても、目の周りは真っ黒だし、付け睫が重すぎて瞼は半分沈んでいるのであまり大きな表情の変化はない。せいぜいグロスでぽってりした唇をあんぐり開けている程度。
「そういう話、好きじゃないんでやめてください。」
慌ててイオナは続けた。落ち着いた口調を取り繕うが、感情は隠しきれていない。
「好きじゃないって言うわりに、ロロノアさんにベッタリじゃない?関係を疑われたって仕方ないと思うんだけど。」
「この話、まだ続きますか?」
「せっかくだし、私もフロアの仕事教えてもらおっかなぁ。」
苛立ちを露見するイオナに対して、彼女は聞こえよがしの独り言を口にする。宣戦布告のつもりなのか、身を引けと言われているのかはわからない。ただ、彼女がゾロを狙っているのであろうことは充分に理解できた。
「ロロノアさんって押しに弱そうよね。前のも結構気の強い女だったみたいだし。」
失恋したばかりの男の名前をあげ、季節外れの春を喜ぶスタッフに、イオナは冷ややかな目を向ける。しかし、彼女はお花畑に滞在中だ。
「あっ、 イオナさん。ほんとにロロノアさんと付き合ってないなら、メアドとか教えてくれるよね?」
「自分で聞けばいいじゃないですか。」
「うわっ。なにその態度。感じ悪ッ…」
ぶつくさ文句を言い続けるギャルを無視して、イオナは過去の記憶のページをめくる。思い出されないことも多いが、鮮明に覚えていたことももちろんある。ゾロとの関わりのうちで思い出したことも…
「めんどくさい…」
イオナは小さく呟く。それが誰に向けて放たれた言葉なのか、本人もよく理解できていなかった。
……………………………………………………………
日付が変わったその時間で、イオナは仕事を上がる。
交替のスタッフから「ゾロさんが別れたってほんとですか?」と聞かれたのだが、その質問をしてきたのはすでに3人目だった。
そうみたいだね。と短く返しながら、イオナはその都度思う。どうしてそんなに"食い付ける"のだろうか、と。
「失恋後だからこそ、付け入る隙がある!」と思うのかもしれないが、それにしても目をハートにしすぎているように見える。
更衣室で着替えたイオナは自身のロッカーの前で、大きな溜め息をつく。本当は気分を一掃するために深呼吸するつもりだったのだが、明るい気分になることが出来ず結果溜め息となってしまったのだ。
ロッカーの扉の内側にかけられた鏡に映った自分は、昼間の薄化粧の幼い顔のまま。そのせいか、普段は問題なく受け入れられた長い髪が浮いているように見える。
(似合ってる…。)
それでも化粧は薄いほうがいいとゾロは言った。これまでのメイクはゴチャゴチャしていたとも。
自分では問題ないと思っていたあのメイクや服装、髪型は客観的に見てどうだったのだろうか。
大人っぽく見られたくて、子供のままでは居たくなくて、なにより本当の自分を隠したくて選んだメイクであり、服装であり、髪型であり。
これまでだってちゃんと鏡と向き合ってきたのだから、間違えてはなかったはずだ。それでもゾロからはそれを『訂正』された。
鏡と睨めっこしていると、休憩室に誰かの入ってくる音が聞こえる。この時間で帰るスタッフはもういないので、その人は休憩なのだろう。
髪を整えロッカールームから出ると、そこでは女のフロアスタッフが近所のコーヒーチェーン店のカップに入ったフラペチーノを片手に雑誌をめくっていた。
お疲れさまですと声をかけると、ストローをくわえたまま顔を持ち上げるスタッフ。彼女の見ていたページには「冬のガーリーコーデ」と書かれており、可愛らしい装いのモデルたちが、可愛らしい小物をいくつも身に付けている。
「イオナちゃん、メイク薄くしたんだね。」
「あ、今日だけっていうか…」
「え?そうなの?もったいないなぁ。」
ゾロに可愛いと言われたからといって、安易にイメチェンを計るのは絶対によくない。好かれたいから、喜ばれたいからと相手に合わせてばかりでは後々痛い目をみる。
イオナは過去の苦々しい経験から、そう胸中で繰り返していたのだが─
「これとかすっごく似合うと思うよ。こんなの若いうちしか着れないし。髪ももっと暗くしちゃえ。」
─スタッフはほんわか可愛いらしい服装を指差してにっこりと笑う。イオナはそれをみて、これまで自分が選んできた服装との違いにしばしフリーズする。
新しいことを始めるようかと思った時、「めんどくさい」の言葉で極力"諦めて"きた。それを始めた時のリスクを考えて、拒絶を繰り返していたのだ。
それなのに今は興味を持ってしまっている。
ゾロに言われたから。褒められたから。
彼のためにフロアの仕事を覚えてまでバイトを代わり、無関心だった料理に興味を持って賄いを作り、挙げ句に服装まで変えようとしている。
それも、望まれた訳でもないのに勝手にだ。
どんなに取り繕っても、本質的なところは変われていなかった。それに気がついてしまったせいか、イオナは曖昧に笑うことしかできなかった。
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