知らぬが仏?
バイト先。休憩室の通路にかけられた鏡に映った自分の姿をみた途端、ゾロは「しまった」と思った。思わず足を止めてしまったため、半歩後ろを歩いていたイオナは驚いたように目をパチクリさせている。
「どうしたの? 」
「いや…」
浮かれていたのかもしれない。何に対してと聞かれればちょっとわからないが、ただ冷静でなかったことは明白だ。
「別に、なんもねぇんだけど…」
よりにもよって"前日と同じ服のまま"出勤してきてしまうとは。
季節は秋だ。違う上着を毎日着てはならないなんてルールはないのだから、そこまで神経質になる必要もない。ただ…
「なんでもないって顔はしてないけど。」
「まぁ、そうだよな。」
昨日、一緒に帰ったことを公言してしまっている。挑発にも似たやり方で、イオナから別のスタッフを引き剥がしたのだから。
(俺はともかく、イオナが軽く見られんのはな…)
不思議そうに小首を傾げながらも、やはり愛想のない表情を浮かべているイオナ。鏡越しに目が合うと、ハッとしたように視線を伏せた。
今から戻って着替えるという手段もあるにはあるが、完全にバイトに遅刻してしまう。そこまであからさまにしてしまえば、イオナも違和感を覚えるだろう。
「行こうよ、着替えなきゃ。」
「あぁ、そうだな。」
「今日からフロントなんだよね。」
「だな。」
「楽チンだといいなぁ。」
足を止めていたのは5秒に満たない。そんな短時間であれやこれやと考えれるはずもなく、急かすイオナに促されるように、休憩室へと足を運ぶ。
幸運なことに、そこにいたのはエリカだけだった。彼女は私服姿であり、パイプ椅子にだるそうに腰掛けスマホを弄っている。
「おはよう、エリカ。」
「あぁ、イオナか。おはよ。」
覇気のない口調で返事をしたエリカは、顔をあげるやいなやゾロをみて眉を寄せた。イオナに続いて挨拶をしようとしていただけに、なんでそんな顔されなきゃ…と不満を吐露しそうになったのだが。
その不満はサラッと解消される。
「で、あんた何しに来たの?」
「は?」
「ロロノアさんは、本日お休みでーす。」
「へ?」「うそ。」
茶化すようなエリカの言葉を聞いた刹那、ゾロとイオナの声が重なる。確かにシフトは入っていたし、連絡など…
そこで二人は顔を見合わせハッとした。
ゾロは慌ててスマホを尻のポケットから取り出す。不在着信が数件存在している上、未読メールの中に、昨日休んでいたスタッフからの謝罪&御礼メールと、契約社員からの業務連絡が混じっていた。
「マジかよ…」
「あんたスマホみる暇も無かった訳?」
「そんなんじゃねぇよ。」
マリからの連絡がくるのが嫌で、あえてみないようにしていただけ。電源こそ落としていなかったが、サイレントにしていたのだ。
実際に、契約社員とスタッフからの連絡以外、ほとんどの未読メールがマリからだった。
ゾロはその未読メールを読むことなく、一括消去する。もちろんゴミ箱からも消した。
「私さ、イオナに用事があって待ってたんだけど。ちょうどいいや、あんたこれからちょっと付き合いなさいよ。」
「なんで俺が…」
「別に。ただ暇なんだろうな、と思って。」
歳上相手に「あんた」呼ばわりして怒られないのは、エリカくらいのものだろう。もちろんゾロだってアンタなんて言われて嬉しい訳がないが、それでも彼女の性格を知っているだけにいちいち指摘するような真似はしない。
誘いを断る理由もなく、さりとて誘いに乗りたい訳がなく、ゾロは無言で嫌そうに眉を寄せる。が、それをみてもなお、彼女は「よし、じゃあ決定だ。」と諦めようとはしなかった。
勝手に決めるなよ。そう言いかけたところで、イオナが特に抑揚のない口調でエリカに問う。
「ねぇ、私に用事ってなに?」と。
「そっちはまた後日。急ぎでもないからね。」
「待ってたって言ったくせに。」
「待って貰えただけ感謝しなって。」
「感謝?何に対して?」
「だから、待ってたことよ。」
ずれている。どう考えても、おかしい会話だったが、イオナはそれ以上なにも言わなかった。エリカの強情さを知っているだけに諦めたのだろう。
「着替えて来なさいよ。遅刻になるわよ。」
あからさまにあしらわれ、イオナは不満そうな顔をする。それでも言い返すことはせず、「それじゃ。」とゾロに向かって右手をあげ、パテーションの向こうへと消えた。
……………………………………………………………………
エリカによって、カラオケ屋からすぐにあるコーヒーチェーン店に連れ出されたゾロはあからさまに不機嫌な様子で店の外にあるテラス席に腰を下ろす。その向かい側に座るエリカの持つトレーには、サンドイッチとフラペチーノ、ホットコーヒーが乗せられていた。
「なんでお前に奢らなきゃなんねぇんだよ。」
「そりゃ、当然のことじゃない?」
「なにが?」
「情報料とおもえば高くはないでしょ。」
「だからなんの…」
「イオナのこと知りたくないの?」
いい加減声を荒げてしまおうかと思ったところでこれだ。からかわれているのだとわかっていながらも、イオナの名前を出されると強く出られない。
ゾロは小さく溜め息をついた後、エリカの持つトレーからコーヒーを取る。気がつけば、彼女はフラペチーノに刺さったストローをくわえていた。
「ダチを飯の種にすんなよ。」
「いいのよ。誰にでもタカってる訳じゃないし」
「タカってる自覚はあんだな…。」
彼女の堂々としているところは嫌いじゃない。きっとイオナ本人にも、「あんたのことを教える代わりに、奢ってもらっちゃった。」とか言ってしまうのだろう。
イオナにエリカを買収したと思われるのは嫌なので、本来ならばここで撤退したいところだが、ゾロ自身、気になっていることがあったため彼女と話してみることにした。
「昨日はどこに泊まったの?ラブホ?」
なんの躊躇いもなく、尋ねてくるエリカ。早くも帰りたい気持ちが増すが「んな訳ねぇだろ。」と否定して、湯気の立つカップを口に運ぶ。
口内に広がるのは、芳ばしい香り。砂糖やミルクは一切入れていないのに、ほのかな甘味が舌に残った。
「でもあんた自分ちに帰ってないんでしょ?」
「まぁな。 」
「じゃあ。どこに?」
「イオナん家。つか、食べながら話すなよ。汚ねぇな。」
サンドイッチを頬張った、エリカはモゴモゴしながら質問を繰り返す。食べ終わってから話せばいいものを、どれだけ腹が減っていたのだろうか。
ゾロはあえて彼女をみないよう目を伏せた。それでもエリカが自分に好奇の目を向けていることは、嫌でも察しがつく。
「もしかして、ヤったの?」
「だからなんでそうなるんだよ。」
「だって、泊まったんでしょ?」
「泊まったからって、別にヤる必要はねぇだろ。」
「なに、そのアホっぽい貞操観念。」
「アホってなんだよ。泊り=ヤるって発想のがおかしいだろ。」
夕方とはいえ野外で、年頃の男女が「ヤった」だ、「ヤッてないだ」の話をするのはどうかしている。ただ、エリカがオープンすぎる性格のせいで、ゾロまで流されてしまっていた。
「そうなんだ。ふーん。」
納得したのか、はたまたこれ以上会話を続けても平行線であると悟ったのか彼女はゾロの指摘を適当に流す。そして、当たり前のような口調で信じられないことを口にする。
「でも、イオナってそんなタイプだったと思うけど。ほら。つい、こないだまではさ…。」
「は?」
「まぁ、あんたと話すようになってから男と遠ざかってたし、なによりもともと好きじゃなかったみたいだし──」
「待て、お前、一体なんの話をしてんだよ。」
「え?イオナの話だけど?」
困惑するゾロをよそに、エリカは淡々としていた。白々しいほどに淡々と、まるでそれが真実であるようにあり得ないことを口にする。
「まさかイオナのこと処女だとでも思ってたわけ?」
「いや、そこまでではねぇけど」
「恋愛には真面目だと思ってた?」
すぐに返事が出来なかった。イオナとはそれなりに会話をしてきたが、そのどこからも「男好き」な様子や、「恋愛体質」な部分は感じられなかった。
エリカは一体、なにを言っているのだろう?
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