プライベート
重い足取りでイオナが向かったのは、約束通り彼氏の暮らす小さなアパート。
大学1回生の彼女はこの年の春から一人暮らしをしているため、親からは事実上、なんの干渉も受けてはいない。もちろん門限もない。
外泊することについては問題ないのだが、彼氏と逢うことが嫌で仕方ない。コンビニに寄って時間を潰してやろうかとも思ったが、執拗にメールが届くので諦めた。
「はいはい、来ましたよ。」
「おかえりーっ。」
イオナがあからさまに嫌そうな顔をしているのに、彼はすごく嬉しそうな顔をする。こういう空気の読めないところが本当に残念な人だった。
3つ歳上の彼とは身体から入った関係だ。紹介されて出会って、とりあえずエッチしてみた。悪くないと思ったから付き合った。
それなのに蓋を開けれ見れば、束縛するやらガキ臭いやらでめんどくさいことこの上ない。玄関で待っていたらしい彼は、すぐにキスを求めてくる。
適当にあしらいならが、廊下で服を脱ぐ。脱衣所のない家に住んでいる男の前で、裸になるのを恥ずかしがっていてはいつまでたっても寝られない。
「シャワー借りるね。」
声をかけると、彼はすごく嬉しそうに「うん!」と言う。もっと男らしく振る舞ってほしい。尻尾を振る犬みたいについて歩かないでほしい。
不満はいくらでもあるけれど、それでもセックスできればいいやと思う。
蛇口を捻るとシャワーから冷水が降り注ぐ。湯になるまで少しかかるのには慣れていた。
イオナが真面目に恋愛ごっこをしていたのは、高2くらいまでだった。好きだよ。と言えば、俺もだと言ってくれる。手を繋ぐのも恥じらって、キスされるためにシチュエーションを考える。映画を観て、感想を言い合って、休日には長電話。
確かにそんなことをしていたはずなのに、イオナはそれが自分の経験してきたこととは思えなかった。まるで昔読んだ本の出来事であるかのように、記憶がぼんやりしているのだ。
輪郭の存在しない思い出。
相手の顔すら思い出せない。
もしかしたら本当に夢の中の出来事だったのかもしれないと疑い始めた時から、イオナは過去の記憶を辿るのを止めていた。
底知れない気だるさを感じながら、肌に乗っかった泡をシャワーで洗い流す。この時、彼女の頭の中には”めんどくさい”という単語しか浮かんでいなかった。
タオルを身体に巻いたイオナが浴室から出ると、彼氏がドライヤーを持って待っていた。まるでオモチャを与えられる前の犬みたいにワクワクした表情をして、ベッド脇に座っている。
初めての部屋に来たときはこの態度にギョッとしたが、二週間ほぼ毎日とくればもう慣れた。いちいちリアクションするのも、拒むのもめんどくさい。
内心、どんなプレイやねん!と突っ込みながらも、ことなかれの精神でとりあえず受け入れていた。
髪を乾かされている間、イオナはいつもボーッとしている。なんだかんだと話しかけてくる彼の言葉に適当に相づちを打ちながら、何を考えるわけでもなく熱風を浴び続けるのだ。
でも今日は違った。
頭に浮かぶのはゾロのあの笑顔ばかり。考えないようにしようとしても、今もまだ彼が正面に立っているのではないかと疑いたくなるほど、すごく鮮明に浮かんでくる。
あぁ、ダメだ…。
そういう気分になれないと感じたのは、ドライヤーの音が止んだ時。ベッドはすぐそこにあるのに床に座ったまま彼は胸に吸い付いてくる。
すごく気分が悪くなった。
軽くあしらうようにしてベッドに逃げるが、逆に彼は勢い付く。それが当然のことだとわかっていても、いい気はしなかった。
ゾロは今なにしてるんだろう。
必死に頼み込む姿も、お礼を言う時の笑顔も、ちょっと困惑した表情も、なにもかも鮮明だ。
彼女と電話をしているとき、彼はいったいどんな気持ちだったんだろう。今どんな気持ちでいるんだろう。
不思議とそんなことばかり考えてしまう。
今、自分の肌に触れている彼氏のことより、1時間ほど前にみたゾロの笑顔に向けている気持ちの方が大きい。
この時点で、もうセックスに対する意欲は失われていた。
「あー、だめだわ。」
イオナはやる気のない声をあげ、脚の間に顔を埋めていた彼氏の頭を押し退ける。彼はすごく驚いた顔をしていた。
エッチの最中に声を出されないことはあったとしても、ダメだと言われるような経験はなかったのだろう。
「ごめん。全然感じない。全く気持ちよくないから、もうやめよう。」
呆然とする彼氏には見向きもせず、気だるそうに身体を起こしたイオナは、彼が畳んでくれていた服に袖を通す。
「ちょっと、待てよ。」
「もうダメだ、別れよう。」
「まだ2週間だろ?」
血相を変えるというのは、今の彼みたいなことをいうのだろう。どうしてそこまで私に執着するのかと小一時間問い詰めたい気持ちもあったが、めんどくさいのでやめておく。
「よく我慢したと思うよ、私的には。」
「いやだ!イオナちゃん…」
裸のまま玄関まで追いかけてくる彼氏に申し訳ないと思いつつ、やっぱりこの人はめんどくさい人種だなとも思った。
全裸のままでは外に出られず、たじろぐ彼の鼻先でドアを叩きつけてやる。ちょっとキツめな別れ方をした方が、吹っ切れるのも早いだろう。
めんどくさがりの自分にしては思いやりのある別れ方をしたと、イオナは一瞬だけ考えた。
もちろんその一瞬以降、相手のことなど考えていない。すでに頭の中にはゾロでいっぱいだった。
真っ暗な空の下。
ポツポツと点在する外灯の灯りを頼りに、イオナはゾロのことばかりを考えながら足を進める。
愛とか恋とかそんなものは都市伝説に近い。
信じる人ほど裏切られ、傷ついて、その傷を癒すためにさらに深みにハマって。いいことなんてない。
それでも誰もが恋愛へ憧れるのは、それが実体のない存在だから。
イオナはそう考えていた。
彼女がいつも相手をセフレ関係に留めず、恋人に位置付けるのは、いつか”答え”が見えてくるかもしれないと考えていたから。
もしかしたら、自分の中で小さな変化が起こるかもしれないと期待していた面があるのかもしれない。
結局のところ何度繰り返しても、納得がいくような結末は迎えられず、「やっぱり恋愛なんて…」と蔑んできた。
それなのに、今日まで存在に気づきもしなかった彼のみせた必死な姿に感銘を受けている。
ゾロは相手の機嫌を取るためにバイト中に電話をしたり、ワガママを叶えるために必死で頭を下げたりしていた。
イオナが目にしたのはきっと彼がこれまで恋人にしてきたことの、ごく一部だろう。普段から恋人をすごく大切にしているのだろう。
まるで未知のものに触れたような気分だ。
恋愛というのはそこまでの価値があるものなのだろうか。自分の時間を、考えを、プライドを削ってまで継続しなくてはならないものなのだろうか。
身近にある快楽より優先させたいものなのだろうか。
たった一人の人間にこだわる理由がわからず、イオナは首を傾げる。
今しがた自分が彼氏の家でやってきたことを忘れて、ただ考えていた。
無意識のまま足を進め、自宅へと帰ってきたイオナは、新着メールと着信履歴がすごいことになっているスマホを投げ出し浴室へと向かう。
すでに一度シャワーを済ましてはいるものの、あちこち舐められているので洗い流さないと気持ち悪かった。
お気に入りのボディソープの香りが心地いい。
溜めたばかりの湯船の浸かり、イオナは深い溜め息をつく。相変わらず、瞼を閉じれば思い出してしまうゾロの笑顔。
今にも彼のうれしそうな声が聞こえてきそうだ。
「半身浴最高っ!」
イオナは気持ちを切り替えるため、大袈裟に声をあげる。多目にいれたバスソルトの香りが少しキツかった。
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