因果応報
その日の夕方。
ゾロは18時からのバイトに備え、17時半には店に出向いた。狭いベッドに二人で寝たせいか、はたまた寝返りも打たないままだったせいか、酷く腰が痛い。
講義に寝過ごしてしまったことに気がついたイオナが、焦ることもなく二度寝を始めた時には驚いたが、あの時、繋いだままになっていた手を離して貰っていれば腰痛はもう少し控えめだったかもしれない。
もうとっくに消えてもいいはずの湿っぽい感覚が、今だに手のひらに残っている。
結局、二人して二度寝、三度寝と繰り返し、昼過ぎまで眠っていたのだけど、しっかりと目を覚ましたイオナは、前回同様ベッドから跳ね起き、浴室に逃げ込んだ。
前回との違いがあるとすれば、それはイオナの跳ね起きた原因だろう。どうやら寝ぼけていたらしい彼女はゾロの腕の中で寝返りを打とうとし、彼のスウェットの中で自己を主張していた生理現象と接触。小さく悲鳴をあげた。
現実的な固さをもったそれにぶつかったせいで、すっきり目が覚めたらしいが、寝ぼけていたゾロは突然のことに呆然とするしかなかった。
結局、シャワーから戻ってきてもイオナはよそよそしいし、ぎこちなかった。それでいて今日1日の講義を休んで、ずっと一緒にいたのだから不思議だ。
休憩室に入ると予想通り制服姿のエリカがいた。彼女はヤスリを使って爪を整えており、めんどくさそうに挨拶を口にする。
「もっと機嫌良さそうにできねぇのかよ。」
「無理無理。ダルいんだもん。」
「喉、大丈夫か?」
「ん、まぁまぁ大丈夫みたい。体調管理に気を付けろとは言われたけど。」
「へぇ。」
エリカはヤスリをポーチに仕舞うと、椅子に座ったまま腕を上へと伸ばし、ぐぅっと伸びをする。そのままの姿勢で、背骨を左右に伸ばしたあと、まだ仕事を始めてもいないのに「あぁー、帰りたい」と口にした。
「今日って、イオナは暇なの?」
「さぁ?聞いてねぇけど… 」
「泊まったんじゃないの?」
「だからって、いちいち予定は聞かねぇだろ。」
エリカは心底不思議そうな顔をする。まるで「なんで?」と聞かれているようで、心地が悪かった。
「イオナとはなんでもねぇよ。付き合ってもねぇのに詮索できるかよ。」
「え?ヤんなかったの?泊まったのに?なんで?」
「一気にましくたてるな。」
ゾロはエリカのテーブルを挟んだ反対側、一番離れた位置に腰かける。
「さすがにまずいんじゃない?二度も家に泊まってエッチしないとか、女からすれば屈辱だと思うけど。」
「なんだよ、屈辱って。」
「だって発情するにも満たない、魅力のない女だって言われてるようなもんじゃない?」
「お前はまた不条理なことを…」
まるでそれが『全ての女の総意である』とでも言いたげなエリカに対して、ゾロはじっとりとした目を向けつつ溜め息を漏らす。
「付き合ってるならともかく、そうでもねぇ男に迫られたらそれこそ屈辱だろ。簡単にヤれる女だと思われてるわけだし、そっちのがまずいんじゃねぇのか。」
「は?イオナのこと簡単にヤれる女とか思ってんの!?」
「いや、待て。何でそうなった。」
エリカはちゃんと人の話を聞いていたのだろうか。一抹の不安を覚えながらも、ゾロは落ち着いて同じようなことを繰り返し説明する。
最初こそ「は?」とか「なにが?」とか繰り返していた彼女も、「鍛えてるくせにフェミニストとかきもい」と悪態を付きながらも理解はしてくれた。
「つまり、俺は無闇に女を抱いたりしない成人君主です(キリッって言いたいわけ?」
「なんだ、その(キリッってのは。」
「知らなくていいわよ、筋トレオタクは。」
いつもより攻撃的な気がするのは気のせいだろうか。いや、気のせいだろう。彼女はいつだってこの調子だ。
スマホを取り出したエリカは画面をスクロールしながら、ゾロに訊ねる。
「あんたってさ、セックスに罪悪感を覚えちゃうタイプ?」
「なんだよ、急に…」
「私の初めてヤった男がそうだったの今思い出してさ。あいつの場合は親バレでめちゃくちゃ怒られたせいみたいだけど。まぁ、まだお互い小学生だったしね。仕方ないっちゃ仕方ないか。」
「─お前の人生、修羅場多そうだな。」
とんでも暴露に対して、ゾロは相変わらずジト目を向けているが内心ヒヤッとしていた。図星だった。
「罪悪感なんて感じる必要ないのに。セックスが子供作るための行為だとか言うなら、体外受精が確立してる今じゃもう必要ないことになっちゃう訳だし。」
「そうやって初めての男に言ってやればいいだろ。」
「言ったけど。でもなんかこう、植え付けられちゃってんのよ、頭に。頭じゃなくて、心かもしれないけど。高校卒業した後、再会ついでにヤったんだけど、終わった後に「万引きしてきた気分だ」って言われたときはさすがにビンタしちゃった。泣いてて可哀想になっちゃったけど、万引きとイコールされた屈辱を思うとそれでも気が済まなかったわ。」
「まぁ、ビンタって普通に痛いしな。」
「どうでもいい男ならともかく、信頼してる男にごめんねって言われるのってキツいの。もう2度とアイツとはヤりたくない。」
その前に、どうでもいい男とヤるなよ。ゾロは心底そう思ったが、言って聞かせたところで聞き流されるだけだろうと、口を慎む。
「キモい男にヤられるのはごめんだけど、好きな男に触られて嫌な女はいないんじゃないかな。恋愛に夢見てる中高生じゃあるまいし。潔癖性の人のことはわかんないけど、あの人たちって極端だしね。」
どこまで勘づいているのか。イオナに相談でもされたのか。はたまた、ただの昔の男との思い出話のつもりなのか。これだけの内容ではわからない。
ゾロもまたスマホを取り出し、webニュースに目を通しながら彼女の言葉に耳を傾ける。
「まぁ、あんたがヤりたくないなら、ヤんなくてもいいけど。でも、ちゃんと繋ぎ止めておいて。店に戻ってこられても困るし…。」
「どうやりゃいいのわかんねぇけど、まぁ、出来るだけ上手くやるわ。」
エリカは一体なにを言いたかったのだろう。
ゾロはそれらしい返事をして席を立つ。彼女の関心はすでにスマホにあるようで、なんの反応もなかった。時間はまだあるが、このままここにいても気まずいだけだ。制服に着替えようとロッカーへと向かった。
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ゾロが着替えを済ましたタイミングで、ロッカーの向こうに異変が起こった。ガタンと大きな物音がしたかと思うと、「なんの騒ぎよ。」とエリカが強い口調で言う。
それだけならまだ、急いで来た誰かが、何かひっくり返したのだろうとしか思わなかったのだが、問題はその後だ。
「あんた!これ、どういうことよっ!」
ヒステリックな女の叫び。その声の主がケバ子であることはすぐにわかったが、一体何があったのか。すぐに助けに行くべきなのかもしれないと迷ったが、半分は好奇心、半分はエリカへの信頼で様子をみることにする。
「何って?あれ?もうメール届いたの?」
エリカは白々しく答える。現在、全く関係ない立ち位置のゾロですら「おい。」と突っ込みたくなるほどの爽やかな物言いだ。
「あんた、ねぇ、一体なんなの?なんで…」
「何って?あえて言うなら元店長の元恋人的な。あ、でもあのbarはオーナーが道楽でやってるだけで、店長なんてなんの権限もない雇われなのよ。だから私もただの顧客でしかないんだけど。」
「戯れ言はいらない!あんた、こんな金額…、散々貢いで、投資したのに、なんで…。」
「だからさぁ、禁句だったでしょ?店のこと。パーティのこと。薬の話までしてくれちゃって…。バラしたんだからそりゃ、怒られるってば。」
「でも私は優良客だって。特別だって。」
「普通に考えなさいよ。あんなパーティーに満額払って参加して、その上、どんどんバーテンに貢ぐ女なんてそうそういないじゃない?そりゃ特別よ。」
「だってそれは…」
マリとは違うタイプのヒステリックだ。ゾロはなりふり構っていない様子のケバ子と、本気を出したエリカのテンションの違いにいろいろな意味でヒヤヒヤする。
残酷過ぎる現実を目の当たりし、意気消沈し始めたケバ子に対して、エリカは決定的なことを告げ始める。
「知らないみたいだから教えとくけど、あのパーティーに参加してんのは、ツケが払えなくなった女の子がほとんど。自分で参加費払ってんのは腹ぼてのおっさんとか、ヤりたいだけのクズ男ばっか。まぁ、あんたみたいな一部のブスはお金払って、若い子に紛れ込んでなきゃ相手になんて─」
「いやぁ!!!」
パチンッ!
嗚咽なのか、悲鳴なのかわからない叫びと同時、刹那的に響いた肌の弾かれる音とともに、エリカの挑発は止んだ。と思われたが、そうはいかない。
ドンッという何かの衝突音。バタバタと鳴るヒールの音は、ケバ子が暴れているからだろう。
「くそブスのくせに一端にビッチ気取ってんなや。お前なんて公衆便所にも満たねぇんだよ。金払わねぇと抱いてもらえねぇのってどんな気持ち?ねぇ答えなさいよ。」
「いやぁ!!!わだじぶぁー」
悲鳴が廊下まで漏れれば、客に聞こえかねない。あまりの修羅場に、ドラマでも観ている気になっていたゾロは、慌てて仲裁に入る。
「おい、エリカ。もう、やめとけ…」
「うっさい、触るな!こいつだけは叩いとかないと、示しがつかないでしょ?」
なんに対する示しだよ。
ゾロは胸中でのみ突っ込み、対応を考える。ケバ子に馬乗りになっているエリカを引き離すという手も考えたが、セクハラだのなんだのと騒がれるのは心外だ。どこか冷静なのは、普段からマリの発狂を目の当たりにしていたせいか、あまりに非現実的なこの状況に目を回しているせいか。
「知ってんのよ。店にパーティー用の女紹介する代わりに、バーテンとデートしようとしてたんでしょ?それって、ここのスタッフよね?ゾロからイオナ遠ざけるの条件にしたのよね?」
「だっでぇ…」
「ここの仲間に危ない橋渡らしてんじゃないわよ。騙し打ちみたいなことしてんじゃないわよ。」
イオナやエリカの悪評を流す際に、ケバ子が店名を口にしなかったのはそのためらしい。確かに全員が「その店」とか「怪しいbar」などという表現を会話に用いていた。
「イオナのないことないこと言いふらすだけなら、私だってここまでしなかった。ただあんたは自分の性欲のために─」
呆気に取られていたのはゾロだけじゃなかった。騒ぎを聞き付けた昼間のバイトや、出勤してきたスタッフたちがドアの辺りでフリーズしている。
「─たった1度のセックスのために誰と誰を、どんだけの人を巻き込んだ!?どんだけの人間を…」
エリカが拳を振り上げたタイミングで、ゾロは彼女の腕を掴んだ。そのまま力任せにエリカを立たせ、引き寄せる。ケバ子の顔は化粧でぐぢゃぐぢゃで、目も当てられない。
「もうやめとけって。」
「離してよ!一発くらい殴っとかないと」
「だったら蹴っとけ。手は怪我するぞ。」
「あぁ、それもそうか。」
自分でもなんでそんなフォローをしてしまったのかわからない。ゾロはやってしまったと思いながらも、エリカから手を離す。
先程までの興奮はどこへやら。やけに落ち着いた様子のエリカは、腰を抜かし立ち上がれないでいるらしいケバ子を見下ろし笑い──
「ちゃんと歯、食い縛って。」
「待て、顔は…」
気がつくのが一瞬遅かった。ゾロが制止に入る前に、エリカの足は力任せに弧を描いており、ケバ子の頬に革靴の先端が吸い込まれていた。
「因果応報よ?」
「いや、全体的にやり過ぎたろ。」
顔面を押さえてのたうち回るケバ子を介抱しようとするスタッフはいない。とことん得意気なエリカに、ゾロはやはりジト目を向けていた。
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