一途な君のこと | ナノ

宣戦布告

二日ぶりにゾロに会える。

イオナは念入りに服装や髪型のチェックを済ませ、バイト先へと向かっていた。

ボルドーの膝上丈のキュロットに、キャラメル色のふわふわニットのトップスの組み合わせは、店員のお薦めだった。
キュロットには遠目がちにはわからない程度の細かな模様があり、ニットのトップスには、肩から腕の部分にかけてレースが編み込まれていてシンプル過ぎないデザインだ。

まさか自分が休みだったたった一日の間に悪い噂が流されていようとも知らず、それに対抗する力が動いているとも知らず。ただいつもより浮かれた足取りで、休憩室へとたどり着いた。

ドアを押し開けると、聞き慣れた二つの声が飛び交っている。どうやらパテーションの向こうで、エリカとやいやいくんが言い争っているらしい。

「俺はやめとこうって言った!」とか、「何回も抱いといてそれはないでしょ。」とか「だって、一回ヤったら歯止めが…」とか。

誰かに聞かれてはいけないような内容が、ジャンジャン垂れ流されている。

入ってもかまわないのだろうか。

イオナは一瞬悩んだが、別に二人とも気を使う相手でないことを思い出し、挨拶の言葉を口にしながらパテーションの隙間をすり抜けた。

「おはようございまーす。」

「あっ、おはよー。」

「イオナちゃん!?もしかしてだけど、い、いまの話聞いてた?」

パイプ椅子に座ったままだるそうに片手をあげる エリカと、彼女の正面であたふたするやいやいくん。

「別に。聞いてないと思うけど。」

「なら、よかった。おはよ、イオナちゃん。」

「うん。」

内容があれなだけに言及はできないが、後ろめたいことであるのは間違いない。けれど、彼の弱点などイオナが知る必要など1つもなく──

今日も可愛いね。と取り繕うように微笑むやいやいくんから、彼女は目をそらした。

「そりゃ、あんたとしかシフトが被ってない日と比べりゃ、気合いの入り方が違うわよ。」

「それどういう意味だよ!」

「今日はゾロもバイト入ってるって言ってんの。」

「アイツは関係な─」

エリカの放つからかいの言葉に、本気になったやいやいくんが声を荒げる。イオナからしてみればそれは迷惑でしかなく「やめてよ。」と二人を小さく睨んだ。

そこでパテーションの向こう、ドアの方から「うぃーす。」と覇気のない挨拶の声が聞こえた。

その声を聞いただけで身体は緊張で強張り、全身を巡る血液がわずかに熱を増したような錯覚に陥る。

「きたきた」と意地悪く笑うエリカと、不貞腐れるやいやいくんのことなど視界に入る訳がなく、イオナの視線はパテーションの方へと釘付けとなった。

「お前ら喧嘩の声が外まで…」

いつもと変わらない気だるそうな態度で、ゾロはパテーションを越えた。後ろ頭を掻きながら、うるさいバイト仲間を咎める言葉を吐きながら。

普段から目付きの悪い彼らしい鋭い視線がイオナへと向いた時、彼は口を閉ざした。というより、言葉を一瞬失った。

「おはよ。」

そのタイミングでイオナは挨拶の言葉を口にすると、彼は「おう。」と短く返事をしてあからさまに目を伏せる。驚いたような、困惑したような、どちらとも言えない曖昧な表情で。

避けられた?

イオナは不安になるが、「なに照れてんのよ。」というエリカの言葉でそれが杞憂であったことに気がついた。

「照れてねぇよ。」

「嘘。顔真っ赤じゃない。」

「─るせぇ。」

元カノとの電話についてからかいの言葉をかけたときと同じような態度で、ゾロはエリカをあしらう。

本当に頬をちょっぴり赤くしたまま、いそいそとロッカースペースへと向かう。そんな彼を視線で追いながら、イオナは微笑む。

特別な言葉をかけられた訳じゃないけれど、自分に対してはにかんでくれたという事実が嬉しくて仕方なかった。

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どきまぎしたままのゾロとは会話できず、執拗に取り乱したやいやいくんは放置で、制服に着替えたイオナはフロントへ向かう。

週の中日ということもあり、店が暇であることはほぼ確実で、それに合わせてスタッフも少なく配置されている。

22時まではあのケバいスタッフと一緒で、それ以降はエリカが入ることになっていた。イオナからすれば、ほんの四時間我慢すればいいことだったが、相手は我慢からなかったらしい。

前回の会話からギスギスしていたこともあり、イオナは簡単な挨拶と業務連絡以外、彼女と言葉を交わす必要性を感じていなかった。

業務連絡ノートに目を通したり、ぼんやりしたり。たった10分が、1時間とも思えるほどの暇。会話のない二人の間に、なんとも言えない空気が蔓延したところで相手が挑発的な口調で話し始めた。

「このあと、飲みに行くのぉ。」と。

女同士の間で甘ったるい口調を使うときは、基本的に相手をバカにする時だ。イオナはしらけた目でケバい女を見据えるが、彼女はそんな視線をものともせず、楽しげに続ける。

「イーストブルーって、イオナちゃんの行きつけだんでしょぉ?この前、スタッフさんから聞いて驚いちゃった。意外なんだもーん。」

なにがそんなに嬉しいんだ。イオナは込み上げてくる苛立ちを飲み込み、返事どころか、相づちすら打たない。

「どのくらい食っちゃってるの?」

含みある問いかけに思わず、「なにが?」と聞き返してしまう。

「なにがって?お客さんとずいぶん派手に遊んでたんでしょ?女神かってくらいチヤホヤされて、いい気になってたんじゃない?男なんて簡単だって。」

待っていましたと言わんばかりの笑顔で、相手は言い放つ。まるで勝利宣言でもするかのように、楽しそうに、嬉しそうに─

「本性隠しとけば、ロロノアさんと付き合えるとか思ってた?こないだまで遊んでたことなんて、水に流せるって思ってた?」

「そんなこと!」

「ねぇ、あの一途なロロノアさんが、誰とでも寝るような娘相手にするとおもう?」

「………。」

「私からは言わないよ?けど、嫌な噂って独り歩きしちゃうからさぁ。心配してあげてるんだよ?酷く振られちゃったら、立ち直れないんじゃない?それとも─」

後悔している。だからこそ、こんな下らない挑発に胸を痛めてしまう。悔しい気持ち以上に、自分を卑下する考えが先をいく。

まっさらでいたかったとまでは思わない。処女じゃないといけないとも思わない。

けれど、好きな人としかしてこなかった人間と、誰とでも寝てきた人間の違いは確かにあると思う。

長く付き合っていた恋人に裏切られてきたゾロは、特にその価値観を強くもっているんじゃないか。

言い返せない。言い返せるわけがない。

「戻っちゃいなよ。スタッフも待ってたよ。」

耳元で紡がれた誘惑めいた囁きは、鼓膜へと染み込み、その奥でドロリと音を立てる。

「休憩いってきまぁーす。」と手をヒラヒラさせるケバ子の姿は、イオナの視界に入らない。

彼女の意識は、どろどろとした自己嫌悪の渦に飲み込まれていた。

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