一途な君のこと | ナノ

心惹かれる

「逃げるなら潜り込むなよ。」

腕の中から飛び出していった温もりの背中に向かって、ゾロは呆れたように小さく呟く。

警戒心が強いくせに、脇が甘い。潜り込んだこと自体が衝動的だったのだろうが、何も言わずに逃げ出すところは実にイオナらしいと思った。
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金曜の夜に夜行バスに乗った時はまだ、彼女と別れるつもりではなかった。呼び出された理由も、知ることになるであろうこともわかっていたが、それでも「別れる」という選択肢はなかった。

そこにあったのは情なのか、はたまた責任感なのか。とにかく頭にあったのは、「別れない」という結論だけ。

彼女であるマリの住む町に近づくにつれ、次々と疑問は沸き上がるが、そのすべてに1つずつ蓋をした。何も考えないでいいように。何も感じないで済むように。

ただ本人に会ってしまえばそうはいかない。

最初こそ上機嫌だったマリも、次第にいつもの調子に戻ってくる。甘えるような仕草や口調が金切り声に変わるまでに、5時間もかからなかった。

バス停まで迎えに来たマリと朝食を外で済まし、彼女の好きだというカフェで彼女の紡ぐ言葉に耳を傾ける。

社会人になれば少しは変わるだろう。そう思っていたが、マリは驚くほどに"そのまま"だった。いや、驚く必要などないのだ。彼女が変わっていないことは、電波越しにも充分に伝わってきていたではないか。

「ねぇ、ゾロ。ちゃんと聞いてる?」

「あぁ。」

「うそ。よそ事考えてたでしょ?」

「そんなんじゃねぇよ。」

「ほんとに? 」

甘えるような上目使いに、尖らせた唇。自分が可愛いことを理解しているマリらしい仕草からおもわず目を背ける。

(帰りてぇな…)

無意識のうちに胸中で呟いてしまった言葉にハッとする。どうしてそんな風に思ってしまったのか。すぐに答えが出てしまいそうで、慌てて考えるのをやめた。

語りたいだけ語ったマリに促されるままに、彼女が一人暮らししている部屋に向かう。向かうと言っても、歩くのが嫌いな彼女はすぐにタクシーに乗り込んだ。慣れた様子で行き先を告げる自分の恋人。

半年前まではなんとも思わなかった彼女のあれやこれやが、やけに勘に触って仕方ない。それでも相手は恋人だ。恋人なのだから。

頭で考えていることと、心で思っていることの違いに、いい加減、耐えられなくなってくる。そのギャップをどうすることもできず、不意に舌打ちが漏れた。

そんなゾロの気持ちに気がついたのか。否、それは恒例行事のようなもの。

マリの部屋について1時間、進路についての話をしている最中、不満げな顔をする彼女を残してゾロはトイレに立った。

用を足したかった訳ではなく、気持ちを落ち着かせるため。イライラしないための些細な息抜きのつもりだった。

けれど、

「なんで、なんでよ!!!」

部屋に戻った途端に始まった。金切り声と共に飛んできたなにかが胸にトンっとぶつかる。なにを投げつけてきたのかと思えば、テーブルに置いておいたスマホだった。

「浮気してたんでしょ?してるんでしょ?だから院に行くなんて言って、向こうに残ろうとして…」

「違ぇよ。」

「嘘ウソうそ…。信じない!マリはずっと寂しかったのに。ゾロはわかってくれてない。わかってくれないんだね!」

何か誤解があっては不味いと夜行バスの中で、メールの送受信フォルダは全て空にしてあった。きっと彼女は通話履歴について怒っているのだろう。

ヒステリックに叫ぶ恋人を前に、ゾロは淡々と考える。

こういう時、するべきことはわかっていた。

泣いて喚くマリをソッと抱き寄せ、頭を撫で、強く抱き締め、キスをして、ベッドに押し倒してしまえばいいのだ。いつも通りに。

「なんでわかってくれないの。こんなに寂しいのに。辛いのに。ゾロはどうして…」

同じような台詞を繰り返し吐き続ける恋人に、ゾロは何も言わずに歩み寄る。やるべきことはわかっているのだから簡単だった。

マリはただ確かめたいだけなのだ。
自分がどれどけ愛されているのか。
大切にされているのかを。

彼女がこうなったのはきっと自分のせいだ。自分が大事にしてやらなかったからだ。いつだってゾロはそう考え、繰り返し間違いを犯すマリを受け入れてきた。

だから今回も"受け入れなくてはいけない"。それが男としての責任…。

「いいもん。マリだって、こっちに彼氏いるんだから。結婚したいって言われてるんだから。ゾロがそんな風なら、マリ、彼と結婚しちゃうから。」

「は?」

「ゾロがダメなんだよ。マリに寂しい思いさせるから。彼も言ってたよ。マリちゃんを寂しがらせるなんて酷い男だって。エッチもしたんだから!」

泣き顔で言い切った彼女を前に、ゾロは伸ばしかけていた手を下ろした。

相手はどうせろくな男じゃないんだろう。それはこの短いやり取りだけでも充分に理解できる。

自分が彼女を引き戻してやらないと、ろくなことにならない。ちゃんと繋ぎ止めておかないと、本気で変な男にハマってしまうかもしれない。

それでももう一度手を伸ばすことができない。おろしてしまった腕を持ちあげることができない。

正面にいるはずのマリの姿が見えない。ゾロはすでに自分の意識の中から彼女の存在が抜け落ちていたことを自覚する。

それと同時に、マリとはまた別の存在が自分の心の大部分を占めていたことにも。

マリはここでやっと、ゾロの様子がいつもと異なることに気がついた。さっきまでの勢いはどこへやら、その表情に不安を張り付ける。

でもそれではもう何もかも遅い。遅かった。

「なら、ソイツに大事にしてもらえばいいだろ。」

「待って、ゾロ…」

「頼れるヤツがいるなら俺なんか呼ぶなよ。」

「違うの、そうじゃなくて。」

「好きなヤツがいるならそれでいいだろ。」

マリは捨て猫のように甘えた瞳で、ゾロを見上げる。「ホントに好きなのはゾロなの。」と声を震わせる。

けれど、もうなにも通じない。

「悪かったな。ダラダラ繋ぎ止めて。こっちで上手くやれよ。」

「嫌!絶対やだ!」

「悪ぃ。もう、帰るわ。」

泣きすがる彼女から避け、玄関に向かう。待ってと声がしたが、もう振り返りたいとは思わなかった。

マリの最初の浮気から2年間、ゾロが大切にしていたのは、彼女ではなく自分の責任感とプライドだった。そこにあるのは愛情じゃない。無償の愛なんてものは幻想だ。

与えてくれるもののない相手など、愛せる訳も、守れる訳もない。

だから…

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