真相は闇より深い
「あっちが遊びならまだマシだった。折り合いつけてなんとかできたかもしれねぇ。けど…」
酔いがサッと引いた気がした。
酷いとしか言いようのない内容に気持ちが落ち着かない。
ゾロのコメカミでは青筋が痙攣しており、もうこれ以上は聞いてはダメだと思っているのについ「けど?」と続きを促してしまう。
「あっちが好き勝手やるなら、俺だって縛られる必要ねぇんだよ。続ける必要なんて…」
いったいどんな思想に陥れば、この人を裏切ることが出来るんだろう。
当事者にしかわからないこともあるけれど、それでも彼女がやっていることはハチャメチャとしか言いようがない。
それに…
「うぐっ、うぅ…」
昔の自分とゾロは全くもって立場が違う。それでも重なって見えるのは何故なのか。込み上げる感情の全てが、瞼に熱を運び頬を伝う。
「おい、イオナ…」
「ごめん、でも…」
胸が張り裂けてしまいそうだ。
こんな思いは二度としたくないと、押し殺してきた喪失感が話を聞いているうちにごった返して噴き出した。
不安で寂しくてどうしようもない、行き場のない感情が全て溢れ出す。
「ゾロぉ…」
「イオナ?」
あぁ、そうか。
一生懸命なゾロを応援してたいと思ったのは、無意識のうちにあの頃の自分と重ねてみていたから。
涙で濡れた頬を豆のあるゴツゴツとした両の手で挟まれ、親指の先で涙の粒を拭われる。温かくて、優しい温もりがジンジンと響く。
「泣くなよ…。頼むから。」
怖いのか、不安なのか、寂しいのか、辛いのか、痛いのかもわからない。ただ負の思いがごった返すばかりのこの感情のやり場がなくて、自分がしてきたことが思い出されて、また苦しくなる。
「もうやめて…行かないで。」
「わかってるよ。」
「傷つかないで。」
「俺は大丈夫だって。それより落ち着け。」
安易に抱き締めるようなことはしない。大きな手は頬と髪にしか触れていない。
それなのに、心強い。温かい。
「酔っぱらってんだろ。ほら、顔拭けよ。」
「ごめん…」
「謝んなくていいって。」
やっぱり恋愛は怖い。自分のことでもないのに、心が壊れてしまいそうになる。
それでも、彼の優しい声を、大きな手のひらを、困ったような笑顔を好きになっていた。
………………………………………………………
外は明るくなってもゾロは部屋にいた。
すでにAM7時を回っており、カーテンの向こうから光を感じられる。
「ありがとな。」
「なにが?」
「泣いてくれて、助かった。」
「え?」
ゾロの言っていることの意味がわからず、イオナは首を傾げるが、彼はそれ以上なにも言う気はないのか、グッと大きく伸びをして続ける。
「眠たくなってきたな。」
「ベッド使っていいよ。」
「いや、悪ぃだろ。帰るよ。」
「今、私が歩けないから。」
「別にイオナが歩けなくても…」
「方向音痴…」
「─なんで知ってんだよ。」
ゾロの表情が少しだけ強張る。どうにも隠しておきたい欠点だったらしい。
「他店ヘルプに行こうとして、迷子になってヘルプを呼んだって話を聞いたことがある。」
「─それ言ったのエリカだろ。」
「うん。」
「アイツ、マジで…」
怒っているというよりはムッとしているといった方が的確なような気がする。表情を険しくしたゾロに向かって、イオナは「ベッド使って」と促す。
「じゃあ、イオナはどこで寝るんだよ。」
「ここに布団敷けるから。」
「でも…」
申しわけないと思っているのか、躊躇う彼にさらに「襲わないから安心して。」と言葉を足せば、「逆だろ、普通は…」と苦笑い。
「ゾロが襲うの?」
「人聞きの悪いことを言うなよ。」
そんな会話の途中にも大あくび。しばらくの問答のうち、根に負けたのか彼はベッドに横になった。
「おやすみ。」
「おう。」
数分後には優しい寝息が聞こえ始める。この部屋で自分以外の誰かが眠っていることが不思議であり、それがゾロであることが嬉しく思えた。
こんな展開になるのは今日が最後かもしれない。
そう思ったとき、少しだけ欲が出た。
(ちょっとだけならいいよね。)
ぐうくかと眠る彼の耳元で「隣、失礼します」と囁き、こっそりベッドに潜り込む。
酔っているのと、もとより代謝がよさそうなのと。
すでに布団の中はぬくぬくだった。
布団を取りすぎないようにと気を付けると、どうしても背中が彼の腕にぶつかってしまう。触れた部分から感じられる温もりが心地よく、イオナをはついつい口元を緩めてしまった。
…………………………………………………
イオナが目を覚ましたのはそれから6時間ほど経ってからだった。突然腰の辺りが妙に重くなり、寝返りを打とうにも身体が動かない。
なにごとだろうかと、二日酔いの頭を働かせるまでもなかった。
自分のものとは異なるリズム息づかいが、後頭部の髪を揺らしているのだから。
腰に乗っているのは彼の脚だ。背後から抱き締められる形で身体は拘束されていて、身動きが取れない。
(やばい!死ぬ…)
ほんの数時間前までは「このままの関係でいい」だなんて、優等生みたいなことを繰り返していたくせに、この状況になった途端にこれだ。
(絶対ダメ。)
(だめ!)
(だめだ。このままじゃ…)
背中に感じる体温が、少しだけ湿っぽく心地いい。それに反して身体の内側からは強い熱が沸き上がり、落ち着くことのない早鐘のせいで全身がフルフルした。
(逆上せる。呼吸が止まる。酸欠に…)
今、もしゾロが起きたなら、きっとこの状況にひどく驚くだろう。そして、どうしてベッドで寝ていたんだと聞かれるだろう。
(そんなの、答えられっこない。)
ギュッと身を強張らせると、さらに腕の拘束は強くなる。血管の浮いた筋肉質な腕はそうやすやすと離してくれそうにない。
(好きだ。大好きだ。だから…)
一か八かだった。イオナは大きく身を捩る。そのまま抜け出せるとは思っていないが、なにかの拍子に腕から力が抜けるかもしれないと考えたのだ。
低く唸ったゾロの息が首筋にかかり、心拍数がさらに速まる。勢いづいた血流は、指の先をビリビリと痺れさせた。
(あぁ、もう…)
本心としてはずっとこうしていたい。でも、それを理性が拒む。今の状態をゾロに気づかれてはいけないし、これ以上の関係を望んではいけない。
失恋したばかりの相手と関係を持つのは、ある意味「代役を演じているようなもの」だ。そのきっかけを作るのも然り。
もしここで間違いがあれば、立ち直れないほどに傷つくことはわかっている。軽いと思われるなら仕方ないが、彼の都合のいい女になるのは辛い。彼が都合のいい女を抱えるような男だと知るのが怖い。
なにより怖いのは、「間違い」で起こった一度の関係で全てが切れてしまうことだった。
身悶えを繰り返していたせいか、腕の力がわずかに緩んだ。その隙にすかさず抜け出したイオナは、彼を振り返り見ることもせず浴室へと急いだ。
ゾロの熱で埋め尽くされた脳みそは、落ち着いてなにかを考えることを許さない。ひとまず頭を冷静にさせようと、服を着たままシャワーの下に立ち、蛇口を捻った。
「処女じゃあるまいし…」
イオナはポツリと呟く。
軽いと思われたところでそれは事実だ。間違って関係を持ってしまったところで、いつものことじゃないか。なにをそんなに…
そこまで考えたところで、思わず自嘲めいた笑みが漏れる。
ゾロだけは、無理だな。
どんなに冷たいシャワーを浴びても、彼と触れ合っていた部分は不自然なほど熱を帯びている。床を叩くシャワーの音ばかりが散らばる中、鼓膜はいつまでも彼の息づかいを再現し続けている。
好きで好きで好きでたまらないからこそ、無理だった。
もっと今の関係を大切にしたい。
ゾロのそばにいたい。
今まで通り真っ直ぐなゾロを想い続けたい。
それがエゴだとしても揺らがない。
イオナは無意識に過去の自分に囚われる。
ずっと忘れようとしてきたはずの感情に、無意識ながらも影響を受けているとは微塵も疑っていなかった。
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