連休二日目
寝なくてはいけないとわかっていても、頭の中は、ここのところ元気のなかったあの人のことでいっぱいだった。
向こうでたのしく過ごしてくれていることを願わないといけない立場なのに、何故か心の濁りが取れない。
彼のことを思い出すたびに、針で刺されているみたいに全身が痛くなる。胸がギュッと締め付けられて、息苦しい。
なにも考えたくないと、冷蔵庫に入っていた缶ビールを一気に飲み干してみたけれど、余計に虚しくなるばかりだった。
カーテンの向こうは明るくなったのに、イオナはベッドの上でぼんやりするだけ。いつもなら、暇な時間はブログサイトをあちこち飛び回ることで埋めるのだけど、その元気すらなかった。
それでも、バイトの時間が近づいてくれば、動かなくてはならない。
ビールのせいか、寝不足のせいか、鈍く痛む頭をスッキリさせるために浴室に向かう。わざといつもより低めの温度のシャワーを浴びた。
濡れた髪を乾かしている時点で、ずいぶんと時間が押してくる。別にだらだらしているつもりはないのに、なにもかもがどうでもよく思え、いつものようにスムーズに動くことができなかった。
イオナはベースメイクだけを済ましてバイト先へと向かう。命のつけまつげすらしていないのは、本当に時間がなかったからだ。
早足で向かったからか、予想より早くに店についた。だるそうに休憩室に入ったすっぴんに近い彼女の顔をみて、エリカが呆れたような口調で言う。
「あんた、ほんと変わったわね。」
「寝過ごしただけだよ。」
「にしては、クマできてるけど?」
顔を覗き込んでくるエリカを交わしながら、イオナはロッカー室へと向かう。制服に急いで着替えなくてはならなかった。
ロッカーをあけ、予備のシャツのビニールを剥ぐ。スカートやらベストやらをハンガーから外し、腕にかけたところで、扉に貼り付けてあるシフト表が目に入った。
「あれ、今日休みになってるよ。」
イオナはいそいそと更衣室に移動しながら、ロッカー越しにエリカに声をかける。潜めている電話中の声も聞こえてしまう距離なので、別に会話に困ることはない。
「フロント代われって言われたの。契約社員様が他店ヘルプ行きたいからって。あたしにそっちやらせろっつーの。」
不満げに呟いきながらも、その口調がどこか楽しそうなのは契約社員の「弱味」かなにかを上手く握れたからなのだろう。
後ろめたいことがあるならば、絶対にエリカにだけはバレてはいけない。イオナは以前一緒に働いていたスタッフがそんなニュアンスのことを話していたのを聞いたことがある。
その時は、彼女のことを腹を割って話せる何ら警戒する必要のない相手だと思っていたため、イオナは首傾げた。
が、長い付き合いの中で、エリカの性格がひどく好戦的であることを知り、敵にだけは回したくないと考えるようになっていた。
別に媚びたり、調子を合わせたり、持ち上げたりしなくてはならない、というわけではない。裏切るような真似をしてはいけないというだけ。
簡単なことだ。平穏に暮らしたいのなら、普通に暮らしていればいい。
イオナは彼女の怒りが振りきれる原因を知らないため、そのくらいにしか考えていなかった。
半畳ほどの更衣室のカーテンをくぐり、着替え始める。他のスタッフが慌ただしく休憩室に入ってきたのが分かり、イオナはそれ以上会話を続けなかった。
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連休の中日ということもあり、混雑は確実。
昨日はメリハリのあるラッシュだったためになんとか乗り切れたが、今日はダラダラとラッシュが続く可能性がある。
そうなった場合、厨房が一度でも止まればもう地獄絵図でしかなく、どうしようもなくなってしまう。タイムカードを切ったイオナは、自然な流れで厨房へと向かった。
この日も担当がやいやいくんであると知っていたからだ。
厨房で彼は熱心にストックの確認をしていた。
こういう日にはロスが出るのは仕方ないと割り切り、必要な野菜を多目に刻むなり、冷凍食品を解凍しておくなりしておいた方がいい。
彼は教えられた通りにするのが好きなのだろうが、それで提供が停滞してしまうならそのマニュアルはクソでしかない。
「ねぇ。キッチン、私がしていい?」
「え?あぁ、イオナちゃん!おはようっ。」
突然声をかけたせいか、彼は質問に答えない。取り繕うみたいに笑顔を作るが、その表情からはあからさまに緊張がうかがえた。
よほどキッチン担当がプレッシャーなのだろう。
イオナは、挨拶を返したあと、同じ問いかけを繰り返す。彼は不思議そうに「それはいいけど…」ど口ごもった。
彼からすれば、ここですんなり了承して、苦手な仕事を他人に任せるダメな奴のイメージを持たれたくないのだろう。
ただイオナ的には、彼の気持ちなどどうでもよかった。むしろ、この微妙な間の方がめんどくさい。
「階段かけあがって提供するより、ここで作ってる方が性に合うから。」
相変わらずの調子で、もっともらしいことを口にする。彼のためではない。自分のためであるニュアンスを強くしたため、彼も「それなら、お願いしようかな。」とちょっと申し訳なさそうに笑った。
イオナは彼に代わって厨房の中をあちこちと動き回る。過去の連休中によく出たものや、普段から人気の高いもの、オススメメニューなどの冷凍品を手元に近い冷凍庫に移しておくのだ。
その間、やいやいくんはフロアの仕事に戻ろうとはせず、彼女の動きを見つめていた。イオナからしてみればあまりうれしい視線ではなかったが、見て学ぶことがあるのならそれはそれで後々助かるかもしれないのでなにも言わない。
どんぶり物でよく使う、青ネギを刻み終わったところで、彼は唐突に口を開いた。
「ねぇ。なんか今日、違うよね?」と。
イオナはてっきり店内のこと、もしくはメニューのことかと思い「何が?」と顔をあげる。
「なんだろ。今日、いつもよりかわいいよ。」
「は?」
「イオナちゃん、なんかかわいい。」
彼はいたって真面目な顔をしていた。はにかむ訳でもなく真剣な表情で言う。ナンパ的な言い方や、媚びるような口調でなかったため、素っ気なくしづらい。
同時に、ほとんどメイクをしていない日に、「いつもよりかわいい」と言われるは気分のいいものではなかった。
イオナはただムッとした表情を作り、作業に戻った。やいやいくんはそんな彼女の態度にすら気がついていないのか、高い棚から盛り合わせ用の大皿を降ろし始めた。
同じことをゾロがしてくれていたことを思い出し、虚しくなってくる。休日の忙しい日に、なんで自分はこんなところにいるのだろうかと。
イライラとは異なる、モヤモヤとした鬱憤のような感情をなんとかしたくて、イオナの手元には力が入る。みじん切りにされていた玉ねぎは、まな板の上でぴょんぴょんと跳ね踊った。
細かく刻まれた玉ねぎをボウルにいれ、ラップする。冷蔵庫の扉を開いたところで、「ゾロが褒めてたよ。」と彼が言い放った。
今しがた振り払おうとしていた人物の名前が出たことに、イオナはたじろぐ。ボウルを持つ手が、小さく震えた。
「イオナちゃんはまだ18なのに、しっかりしてるし落ち着きがあって安心してみてられるって。」
まるで世間話をするみたいな彼の口ぶり。ただその中身は大きく彼女の心を揺さぶる。
普段は「変な奴」だの「無愛想」だのと笑われていただけに、密かに評価をしてくれていたことがすごく嬉しく思えた。
素直に喜べるほど単純な人間ではないが、照れ臭い気持ちはある。「そう。」とだけ返事をして、冷蔵庫を閉める。
「彼女も同い年らしいよ。ゾロの3つ下だから。」
「ふーん。」
彼に悪気がないことはその口調からわかる。きっとありのままを伝えたかっただけなのだろう。ただ、ネタ明かしされたこっちはたまらない。
ゾロはきっとしっかりしている、落ち着いている女より、ちょっとわがままで不安定でどうしようもない娘の方が好きなのだ。
なんだか情けなくなった。鼻っから自分は眼中になどなかったのだろう。むしろ、「バイトを代わってくれたイイ奴」としか思われていないのだろう。
それなのに人伝に誉められていたよ。と言われたくらいで、浮き足だってしまいそうになった自分が心底残念だった。
そんな感情の移り変わりに気がつかれぬよう、イオナはレタスを切る。ザクッザクッと無愛想な音が響く中で、やいやいくんの男にしてはマイルドな声だけがやけに明るい。
「アイツの彼女。あんまいい娘じゃないみたいだしなぁ。遠距離になって余計酷くなったみたいだし…。なんで付き合ってんだ…」
「好きだからでしょ。」
それ以上は聞きたくなかった。イオナは彼の言葉を少しキツい口調で遮り、「人の彼女の悪口なんて言わない方いい。」と告げる。
彼はハッとした顔をしたあと、罰が悪そうに口角をもちあげた。
なんだが気まずい。
時計を確認するとそろそろ忙しくなってもおかしくない頃だ。学生のフリータイムの時間が終わり、退店ラッシュがくるはず。
このままぎこちない雰囲気を引きずると、めんどくさいことになりかねない。めんどくさいことを回避したくて、イオナは言う。
「今日はまかないなんにしよっか。食べたいものとかある?」
明るく訊ねたつもりだった。ちゃんと平然を装えたつもりなのに、彼は「なんかごめん…」と謝罪する。
申し訳なさそうに、視線を伏せる姿をみせられるとどうしていいのかわからない。
なんでてめぇが落ち込んでんだ!そう言ってやりたい衝動をこらえ、イオナは彼を見据える。
そのまま無言が続いた。
ほんの数秒の無言に耐えきれず、なにか言おうとしたイオナを遮ったのは、デシャップに置いてあったスマホのバイブ音。
やいやいくんから、スマホへと視線を移す。途端に心臓が止まるかと思った。
着信:ゾロ
(なんで…?)
あれだけ逢いたかった恋人と一緒にいるはずの彼が、自分なんかに連絡してくる訳ないじゃないか。
たかがバイト仲間になんか…
そこまで考えたイオナだったが、彼女には心当たりがあった。
あ…、そうか。
ゾロの恋人が彼のスマホを勝手にいじって、電話をかけてきたんだ。「あんた、ゾロの何なの?」とか言って、「彼は私のよ!」と宣言されるんだ。
そうだ、きっとそうだ。
過去に彼氏の浮気を疑い、そんなことをしていた友人が居たことを思い出す。結局、彼氏の浮気は疑惑止まりで、その奇行が原因で二人は破局した。
懐かしい出来事だ。
ゾロはそんなことをする人間だったとしても恋人を許すんだろうな。
なんの根拠もないがそう思えた。
光続けるスマホの存在が嫌なものにしか見えず、目を背ける。二日前までほぼ毎日逢っていたはずの人はただのバイト仲間。
そして今、彼女に逢うために遠くにいる。
これでいい。これでいいんだ。
何度も胸中で繰り返すのに、悶々とした感情は深くドス黒くなるばかり。
気がつけばインカムから指示の声が溢れていた。
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