一途な君のこと | ナノ

感触と気遣い

ゾロとエリカの会話が終わった頃。

イオナは相変わらず仕事をする気のない契約社員に全てを押し付けられる形で、一人、フロントに立っていた。

熱はもうない。体調も悪くない。
それでも顔色は、表情は全く優れない。

─泣いちゃダメだ。

そう思えば思うほど、目頭が熱くなる。涙が溢れそうになる。そうさせるのがなんの感情なのかすらもわからず、ただ、ゾロを思うだけで泣きたくなって仕方ない。

今晩もまた泣いてしまったら─

昼間の失態を思い出し、イオナは顔をしかめる。

めんどくさいと思われるかもしれない。いや、確実に思われる。このまま情緒不安定で居続けたら、今までのように過ごせなくなってしまうかもしれない。

ゾロが居なくなってしまうかもしれないというのは、常々考えていたこと。恋人になるわけでもなく、ただ傍にいるだけの状況が永遠に続くとは思っていなかった。

それでも─

他の誰かを好きになって距離が生まれるのと、嫌われて距離を取られるのとではずいぶんと状況が違ってくる。

前者でもずいぶんと辛いだろうが、それ以上に傷つくのは後者だとイオナは知っていた。だからこそ、嫌われたくないと強く思っていたし、そのせいで無意識に会話や行動に制限をつけてしまっていた。

そういった"自覚ない遠慮"が、周囲に伝わってしまっていたことも、その話をゾロたちがしていたとも知らず、イオナは下唇を噛み締める。

ダメだ。このままじゃ…。

母から褒められたがっていた自分。
認められたいと頑張っていた自分。

その時の感情や経験を忘れてしまったところで、感覚は心に染み付いてしまっている。見捨てられてしまう恐怖。周囲を失う不安。込み上げる孤独感。

ワガママを言わず、従順であり続けることで『愛してもらえる』と信じていたその頃と同じように、無意識のままに感情に制限をかけようとする。

けれど…

「大丈夫か?」

「え?」

「すげぇ、顔色悪いぞ。」

カウンターの向こう側で心配そうな顔をするゾロ。そこに面倒がる雰囲気は一切ない。それが余計にイオナの感情を不安定にする。

面倒臭そうな顔をされる方がいいというわけではない。嫌がられることを望んでいるわけではない。それでも─

彼の手が頬に触れる。暖房の効いた店内だからか、その手のひらは少しだけ湿っていた。全てを包みこんでしまいそうな大きな手。その感触が、安堵感を与えてくれる。

だからこそ、涙が溢れた。

煩わしいと切り捨てられてない。邪険にされていない。その状況が涙を生み出す。

「ちょ、おい。待て…」

まさか体調を気遣っただけで泣かれるとは思ってもいなかったのだろう。あからさまに狼狽したゾロは、フロントの裏、イオナの背後にあるドアの向こうにいるであろう契約社員ではなく、エリカをインカムで呼び出そうとする。

「ごめん、大丈夫だから。」

「いや、でも…」

イオナ自身、どうしてそんなに自分が涙脆くなっているのかよくわかっていなかった。それでも適当に涙を拭いつつ、「落ち着け」と自分に言い聞かせる。

「とりあえず、休憩入れよ。今、エリカ呼ぶから。」

「いいよ、大丈夫。」

「でも…」

心配そうに眉尻を下げるゾロに向かって、無理矢理笑って見せる。ゾロは一瞬照れたような表情をした後、すぐに目を伏せ、困ったように首の後を掻いた。

「しんどいならすぐに言えよ。」

「うん。わかってる。」

「なんか必要なもんあるか?」

「ううん。」

イオナが首を左右に振ると、ゾロは少しだけ残念そうな顔をした。休憩中にまた買い出しということは、またエリカに使い走りにされているのかもしない。

思わず「でも、」と付け加えてしまう。

「ん?」

「プリンが食べたい。」

「了解。」

おねだりされたのに嬉しそうにゾロが笑う。

「んじゃ、いってくるわ。」

「気を付けてね。」

すぐそこのコンビニに行くだけなのに、別れを躊躇うような仕草をみせつつ店を後にするゾロ。その背中を見つめながら、イオナはわずかに口元を緩めた。
……………………………………………………………………………

ゾロと入れ替わりに休憩に入ったイオナは、エリカと休憩室で鉢合わせた。今日の彼女はサンドウィッチを食べていない代わりに、カロリーメイトをもぐもぐと頬張っている。

挨拶をしても彼女がスマホに夢中なのは変わらず、「ん。」と素っ気のない返事が返ってくるだけ。

きっと彼氏とのLINEに夢中なのだろう。

これまで、何度かエリカの『彼氏がいる時期』をみてきたが、ここまで恋愛にのめり込んでいる姿は初めてだった。

片手間でするのが恋愛で、"適当な時期に放り出せるもの"程度の位置付け。尊重するほど尊くもなく、夢中になるほど儚くもない存在。それが、エリカにとっての恋愛であり、そんなスタンスで恋を楽しんでいるのだと思っていた。

そして、自分もそうであろうと─

そこにときめきがあったことはなかった。相手を大切に思う気持ちも、自分をよく思われたいと感じる可愛らしさも。ただ単に顔を会わせて、セックスをして、それで…。

そんな生活に意味があったのかなんてわからない。けれど、嫌気が差していた訳でもない。

でも、それでも、ゾロという『一途な存在』に魅せられて、気がつけばその人を好きになっていた。沸き上がる気持ちは否定するほどに強くなり、抑えようとするほどに欲深くなった。

躊躇うばかりで、一歩が踏み出せない。相手に伝えることも、自身の中で消化することも出来ない感情に、心は消耗し続ける。それなのに、好きでいることをやめることは出来ず、相手の気持ちを確かめることも出来ないで─

イオナはそんなハッキリしない自分を『ウザったい』と思っている。

嫌いな相手には「嫌いだ」と率直に言えられるし、面倒なことは「めんどくさい」と伝えていた。楽な方に身を委ねる性格は年々酷くなっていたし、あの店の客と繋がっていたのもその延長に過ぎなかった。

そんな自分が歪ながらも恋愛をしようとしている。というより、もう恋愛という底無し沼に両足を突っ込んで、抜け出せないほどに沈んでしまっている。

熱に浮かされるような日々で、小さな感動や細やかな幸福感に刺激され続ける毎日で、少しずつ起こっていた心の変化に気がついていなかった。

あの頃の自分に戻っている事に。
情けなくて、惨めで、馬鹿な自分に…。

変わりたいと思い、忘れてしまったはずなのに、無意識のうちに戻ってしまっていた。

封じていたはずの過去の自分を、今の自分に重ねることで思い出してしまって─

「私ってウザいかな。」

衝動的な問いかけに、エリカは今しがた口に含んだばかりの珈琲を噴き出した。

「ちょっと、いきなりなに!? 」

「いや、なんとなく…」

顔を真っ赤にしたエリカに呆れた目を向けられ、おもわず視線を伏せてしまう。

「めんどくさいんじゃなかったの?」

「え?」

「悩んだり、後悔したり。そんなのめんどくさいからしたくないって。前にイオナが言ってたことでしょ?」

「そういえば…」

イオナはまだ付き合いの浅かった頃のエリカに、そんな風な事を言ったことがある。

「昨日も言ったでしょ?周りを振り回せって。それに、無駄に悩んで、メソメソする暇があんなら四十八手の一つでも覚えた方が、ゾロの為だと思うけど?」

「四十八手って…」

急な下ネタにイオナは苦笑うが、エリカは特に間違ったことなど言っていないという風な顔で続ける。

「心配しなくてもマリちゃんだって、そこまでの奥義は持ってないはずよ。だいたい胸の大きな女はそれにかまけてテクニックも覚えやしないんだから。」

「いや、そっちの話はもう…」

「ゾロって不器用そうだけど、痛いとか言っちゃダメよ。その台詞使っていいのは処女限定。専売特許よ、羨ましい。」

完全に方向性を見失った会話。そのマシンガントークはどこかわざとらしかったが、イオナは内容が内容だったからか何も言わない。

曖昧な表情のまま、冷蔵庫の前に立ちすくむイオナに対して、エリカは視線をスマホへと落としたまま言う。

「心配しなくても平気よ。」

「へ?」

「あんたが思ってるほど、アイツは薄情じゃない。」

「私は別に、薄情だなんて…」

「でも、捨てられるかも。とか思ってんでしょ?」

「それは…」

図星だった。大好きだった母親に、初めて好きになった異性に、『煩わしい奴』認定された自分。そんな自分が、誰かを好きになったところで迷惑になるだけなんじゃないのか。

無意識にさらけ出している欠点で、もしくは今現在の情緒不安定のせいで、相手に不快な思いをさせてしまうのではないか。

そして、また見捨てられるんじゃ─

「大丈夫。アイツ、結構ドMなとこあるから。あんたに振り回されたくて、ウズウズしてるに決まってる。」

「ドMって…」

おもわず渋い顔をしてしまうのは、電話越しにマリに食い下がっていたゾロを思い出したから。あの時は彼の熱意に感動したけれど、今はまた違う想いで胸が熱くなる。

勝手にいろいろ思い出し、勝手に嫉妬心を強くするイオナの様子をエリカはチラリとうかがう。その表情から生気がみなぎっていると判断したのか、彼女は少しだけ安堵したように微笑んだ。

「恋愛なんて十人十色なわけだし。」

「─相手が違うんだから、躊躇う必要なんてないんじゃない?例え、イオナがウザかったところで。」

自然な流れで良いことを言うエリカ。直接的なことを話してもいないのに、あまりに知りすぎているようにも思える発言だったが、それを言われたイオナはそれに気がついていない。

「やっぱり、私ウザいんだ…。」

「まあまあウザったいわよ。歯切れ悪いし、すぐにメソメソするし。セックスしなくなったし。」

「それは別に…」

イオナはbarとエリカの関係を知らないために、"セックスしなくなった"の本当の意味を理解できず、ただ眉を潜める。

客寄せパンダの一人が居なくなったところで、傾くようなbarではないように思えるが、それでもイオナが通わなくなったことで、経営上、わずかな打撃があったのかもしれない。

エリカは怪訝な顔をする友達をみて、ニンマリと笑う。そして、ゾロに買ってもらったのであろうココアをズズズと啜るとストローから口を離した。

「私からしたら、今のメソメソしたイオナも、ちょっと前のドライなイオナも、あんまり変わんない。」

「それは─」

「今のあんたも良いんじゃない?それに─」

素っ気ない調子で、スマホを片手に放たれた台詞。視線は相変わらずイオナに向いてはいないけれど、その気持ちはなんとなく伝わってくる。

「─大丈夫。結構いい線いってるから。」

一体何がいい線なのか。それはわからないけれど、励ましてくれていることは充分に伝わってきたし、勇気を貰えたことに違いなかった。

イオナはありがとうと伝えてみるが、「ん。」と愛想のない返事が返ってきただけだった。

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