大きな器
身体が熱い。それは発熱による『熱さ』ではなくて、布団に閉じ込められた熱のせい。
身体を包み込んでいた布団がわずかに動く。途端に流れ込んできた冷気に、イオナは思わず身を縮こめた。再び身体を覆った布団は相変わらず温かく、その安堵感から思わず寝返りを打ってしまう。
「起きたか?」
遠くから聞こえる声に対して、イオナは小さく唸る。それが夢の中で聞こえた声なのか、現実の声なのか理解できていなかった。
「イオナ、大丈夫か?」
立て続けに聞こえた疑問文。それは普段なら絶対に聞き間違えたりしない声であるにもかかわらず、寝ぼけていたせいか、思わず「誰?」と問いかけてしまう。
「誰って、俺だよ。」
「俺だよ。じゃ、わかんないよ…」
まるで記憶が欠落しているような感覚だった。普段よりずっと重たい瞼を持ち上げたイオナは、ボヤけた視界の中に緑色を見つける。
頭の中が妙に混濁していた。
部屋に誰かを招いた?誰を?なんで?私が…
脳がまったく機能しない。
でも引っ掛かる。分かっているのに、理解できない。その違和感だらけの感覚に更に混乱する。
「寝ぼけてんのか?」
問いかけと同時、頬に温かいものが触れる。それが手のひらだとわかったと同時に、やっと記憶が整理された。自分が居るのが、一人暮らしをしている部屋であること。そしてその相手が─
「…ゾロ。」
「正解。」
彼は安心したように微笑んだ。その笑顔につられて、イオナもまた口元が緩む。
「ごめん、寝ぼけてた。」
「みたいだな。」
皮の厚い、ゴツゴツした手のひら。それがゆっくりと頬を滑る。長さのせいか、太さの気にならない指がゆっくりと髪をすいた。その感覚が心地よくて、瞼の重みもあってか再び眠りに落ちそうになる。
「熱、引いたみたいだな。」
「熱?」
「あぁ。バイトの後…」
説明しようとしていたゾロが言葉を切った。きっと、あまりにとぼけた顔をしていたせいだろう。
「覚えてないのか? 」
「うん、あんまり。っていうか、全然…。」
なんとなくバツが悪かった。思わず目を伏せると、その視線の先に黄色のレジ袋が目に入る。その中身が見えたことで、更に気まずさがつのった。
「ごめん。」
「別に謝んなくてもいいけど…」
ゾロは不思議そうな顔をする。どこか不安がっているようにもみえる。そして、イオナ自身も不安に思い始める。
きっかけはアレだったとは言え、こうして二人きりの時間を積み重ね、いろいろな表情をみてきた。
大切な存在で、大好きな人で─
それなのに頭の中からゾロが消えていた。
目覚めた瞬間に思い出せなかった。
どうして─
「イオナ?」
「ん?」
「大丈夫か?」
「うん。」
込み上げてくる感情で胸がつっかえる。漠然とした不安感。その心細い感覚に、身に覚えがあるはずなのに思い出せない。
「薬、飲んどくか?」
「いらない。」
「じゃあ、これ飲んどけ。」
サイドボードに乗せてあったスポーツドリンクを手に取るゾロ。その中身は半分ほど減っていて、ペットボトルにはストローが差さっている。
覚えているようで、そうでない。
その光景をどこかでみたような、見ていないような。イオナの意識はやはりどこかぼんやりしている。
「冬でも水分取っとかないと脱水になるぞ。」
「うん。」
イオナはまだ顔を起こしてはおらず、力なく頬を枕にくっつけたまま。ゾロはその丁度良い位置に、ストローを持ってきてくれる。
喉が乾いているといった感じはなかったものの、差し出されるがままにストローをくわえた。舌に触れる甘い液体。冷たい感覚が喉へと流れ込む 。
ほんの少しではあるものの、頭がスッキリしたように感じた。
「おいしい。」
「喉、乾いてたんだろ。けっこう寝てたからな。」
「どのくらい?」
「えっと…」
ゾロは壁掛け時計のある方へと顔を向ける。イオナもまた頭を持ち上げ、同じ方向へと視線を向けたのだか──その時計の針の差す位置を確認した途端に、顔色が変わった。
「大学、忘れてた…」
「別に忘れてた訳じゃないだろ?」
「今日、カード出してなかったからテスト…」
どことなく噛み合わない会話。突然動揺しはじめたイオナをみて、ゾロはなにかおかしなものを見たかのように頬を緩ませる。
「そのことなんだけど。」
「ん?」
「頼んどいた。」
「え?」
「だから、な。」
曖昧な物言いに、ポカンとするイオナ。そんな間抜けた反応を楽しむような態度をみせた後、ゾロはイオナの顔の前にひょいと彼女のスマホを差し出した。
「電話。けっこうしつこく鳴ってたから、急用かと思ってな。で、出たら大学のなんたらって相手が言ってたんで─」
「出たんだ。」
「ダメだったか?」
「いや、別に…」
そう返事をしながらも、心は騒ぎ立てていた。相手はどう思ったのだろう。彼氏どころか、"好い人すらいない"というスタンスを保っていただけに、学友たちの反応が気になる。
「出せるだけカードは出しといてくれるつっーから、学番は教えといた。」
「ありがとう…」
慣れているなと思う。たった3年先に産まれただけなのに、どうしてこうもゾロは大人なのだろう。スマホを受け取ったイオナは、ゆっくりと身体を起こす。
「俺はてっきり、大学の友達も、エリカみたいなのばっかかと思ってたけど、話してみたらけっこう大人しそうだったな。」
「緊張してただけだと思う。」
「なんで緊張するんだよ。」
「だって─」
顔を合わせて会話しない時。特に、こうした機械を通して会話した時、ゾロの声は普段よりずっと低くなる。そのトーンに慣れたイオナは、その声の響きに色っぽさを感じることもあるけれど、初対面ならば「まさか!この人、不機嫌!?」と思ってもおかしくない。
電話越しにあたふたしたであろう学友の顔を想像し、それに気がつかなかったであろうゾロの渋い顔を想像し、思わず吹き出しそうになる。
「─やっぱりなんでもない。」
「なんだよ。なんでもないって。」
「なんでもないから。」
笑いを堪えきれず、フイと顔を背ける。にんまりしてしまう頬を隠すように手を添えてみるけれど、それはすんなりとゾロによって阻止されてしまう。
「言えよ。気になるだろ。」
「私はならない。」
「俺が気になってんだよ。」
手首を掴まれ、隠したはずの表情を覗き込まれる。照れ臭いけれど嫌じゃないやりとり。普段より積極的で、子供っぽいことを仕掛けてくるゾロに、ドキドキする。
「やめてよっ」
「だったら言えよ。」
「やだ。」
絶妙な力加減の押し問答。本気であって、冗談みたいなやりとりの自然さが心地良い。
「ったく…」
ゾロがそう呟いたタイミングで、腕を掴む力が緩められた。諦めたのだろうか。諦めを感じられるニュアンスの呟きに、油断してしまうイオナ。
それを見計らったかのように彼はベッドに上がってくる。「ちょっと。」と抵抗の声こそあげたが、その身体はあっという間に組敷かれてしまった。
「ゾロ、待って。」
「照れるなよ。」
「照れてなんて…」
イオナは顔を背ける。異性とこういった体勢になるのは、そういったことをする時がほとんどだった。ドキドキするよりも、がっつかれているその感じに不快感を覚えていた。
でも、ゾロにこうされても、不思議といやらしさが感じられない。身体だけを求めるような下心を感じない。だからこそ、『照れ』てしまう。
「イオナ。」
「なに。」
「ちゃんとこっち向けよ。」
「無理だって…。」
ゾロが見ているのは身体じゃない。それがひしひしと伝わってくる。セックスはコミュニケーションと主張する人もいるけれど、相手がそれを受諾していないのならそれは独りよがりでしかない。
そういった独りよがりをこれまでたくさんみてきたせいか、ゾロの行動の節々に感じられる気遣いに胸が熱くなる。
「イオナ。」
同時に、泣きそうになる。胸から込み上げてくる熱い塊が、徐々に涙に変換されていく。
大切にされていることが伝わってくるのに、それがただの思い上がりなのではと不安になるこの不自然な感覚。無意識に身体を強張らせるイオナに対して、ゾロは困ったように小さく息を吐く。
そして─
「笑えよ。」
視界が半回転。「えっ。」と声をあげる間もなく、イオナの身体は持ち上げられ、天井に背を向ける。ちょこんと尻餅をついたのは、紛れもなくゾロの上。
いつもは見上げてばかりのゾロの顔が真下にある。その慣れない状況のせいか、込み入っていた感情は一気に通り過ぎ、照れ臭さばかりが先に立つ。
「さっきみたく笑えよ。」
「さっきって…」
「さっき、笑ってたろ?」
狼狽しきりのイオナよそに、ゾロはたじろぎもしない。余裕があるのか、それとも余裕のあるフリをしているのか。
どちらにしても、これまでのゾロらしくない振る舞いに、イオナは更に照れ、混乱し、口ごもる。そんな中でせいぜいできるのは、顔を背けることくらい。
「たまにはいいな、こういうのも。」
「なにが?」
「照れた顔、見上げんのも悪くない。」
からかいの台詞のせいで、冗談っぽく笑うその笑顔のせいで、更に頭が逆上せてクラクラしてくる。ほんの数分前までは不安でいっぱいだったはずなのに、そう感じていた理由までもすっぽりと頭から抜け落ちた。
胸いっぱいに広がり、身体中を駆け巡る熱のせいで、指先が小刻みに震える。言葉に詰まったイオナに追い討ちをかけるように、ゾロはそのまま彼女をギュッっと抱き寄せた。
抵抗するようなフリをしながら、されるがままに受け入れる。温かい腕の中。呼吸の度に上下する分厚い胸板。心地良い心臓のリズムに頬を預ける。
ドキドキと安堵の同居する不思議な感覚。
正反対の二つの感情の中で、自然と思考は落ち着きを取り戻し始める。
「重たく…ない?」
躊躇いがちに問いかけると、ゾロは小さく笑った。その拍子に、胸板が小刻みに震えて温かな振動が頬に伝わってくる。ギュッとしがみつきたくなる衝動を、羞恥心が引き留めた。
「けっこうずっしり来るな。」
「酷い…。」
「冗談だっての。」
ポンポンと頭を撫でられ、おもわず「子供扱いしないでよ。」と照れ隠しが漏れる。途端にゾロが笑いを堪え始めた。
「なんで笑うの。」
「いや、別に…」
「別にって、酷い。」
「酷いことなんてしてねぇだろ。」
「してるよ。」
ゾロがコロリと寝返りを打つ。それに合わせて、イオナの身体はベッドに転がり落ちる。イオナが小さく身動ぎをしたタイミングで、グイと身体を引き上げられ、目線の高さが一緒になった。
目と目が合うと、笑みが返ってくる。
普段は目付きが悪くみえるその目元も、この時ばかりは目尻が下がって優しくみえる。
ずっと変わらない優しい表情。
ずっと自分にだけ向けられていればいい。
それが欲張りだったとして、口にさえ出さなければ問題はない。今の関係に満足している。イオナはそう思っているからこそ、余計なことを言わないように注意していた。
いつ均衡が崩れてもおかしくない不安定な関係。
その時はずいぶんと温かいのに、後から思い返すと不安になってしまうような曖昧な距離感。
それでも、失ったときの喪失感を思えば──
「泣くなよ。」
「泣いてなんか…」
「嘘つけ。泣きそうな顔してんだろ。」
指摘されて初めて気づく。
さっきまであんなに笑っていたはずなのに、楽しかったはずなのにと思うほどに、更に熱いものが目頭に込み上げてくる。
わからなくなった。一瞬一瞬で感情や気持ちがコロコロし過ぎて、どうしていいのか─。
「ごめん。」
そう呟くのでやっとだった。指で何度拭っても、涙が溢れて止まらない。
きっと自分は今、とてもめんどくさい存在だ。
そう思ってしまって、更に胸が痛くなる。
「ちょっと疲れてんだろ。ちゃんと休めよ。」
どうして迷惑そうな顔をしないんだろう。どうして嫌な顔をしないんだろう。どうしてこんな時まで優しいんだろう。
その優しさが嬉しくてまた涙が溢れてくる。
それと同時に、どんどんめんどくさい人間になっている自分に嫌気が差した。
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