一途な君のこと | ナノ

体調不良

「なんで体温計がないんだよ。」

ゾロの呆れた声に対して、ベッドの上に腰掛けたイオナは曖昧に微笑む。外はずいぶんと寒いはずなのに、ゾロは額に汗をかいていて、わずかに息を切らしていた。 彼が上着を脱ぐとふわりと冬の香りが鼻孔をくすぐる。

「迷子、ならなかったんだね。」

「しょっちゅう泊まってるからな…」

「もう道のり覚えたんだ。」

「まあな。」

テーブルに置かれたばかりの黄色い袋には、風邪薬やら冷却シートなどの医薬品の類いや、栄養補給用のゼリーなどがこれでもかと入っている。

普通に考えれば買いすぎなような気もしないではないが、それだけ彼の優しさが詰まっているような気がしてイオナは思わず口元をほころばせた。

上着をハンガーにかけ、カーテンレールに引っ掻けたゾロは、彼女の前にしゃがみこむと袋から冷却シートの箱を取り出す。

「自分で出来るよ。」とイオナは笑うが、「いいからじっとしとけよ。」と彼は譲らない。そんな動作の一つ一つが、なんとなくいつもより積極的に思えた。

「しんどいならそう言えよ。」

「精神的なものかと思ってたから。」

「精神的でもなんでも、しんどいなら言え。」

ガサツな動作で箱をあけ、紙の袋を取り出すゾロ。少しだけ乱暴なその指先の動きは、みていて飽きない。紙の袋から冷却シートを取り出すまでは順調で、剥離フィルムを外すのに手こずる。体調が悪いはずなのに、そういう彼の姿をみていると楽しくて仕方ない。

やっとのことでフィルムが外れ、広げられたそれが「ん。」と差し出される。促されるままに前髪を持ちあげると、ペタリと冷却シートが引っ付いた。

「意外と、デコ広いんだな。」

「禿げてないもん。」

「ハゲとは言ってないだろ。」

ゾロは呆れたように優しく笑う。その笑顔がなんとも言えず魅力的で、それでなくても熱い頬がさらに火照る。おもわず、前髪を手ぐしで直すフリをしながら目を伏せた。

額に貼られた冷却シートがやけに冷たく、鈍い痛みを和らげてくれている。

一人暮らしを始めて、初めての発熱。

あれやこれやと考え事をし過ぎていたせいか、自分の体調の変化に気がつけなかった。もしかしたら体調が悪かったせいで、脳がうまく稼働してなく、感傷に浸るようなことをしてしまったのかもしれない。今思えば、クレーム対応がちゃんとできていたのかも怪しい。

タクシーに乗ろうとしてふらついた時、受け止めてくれたゾロが「なんか熱くないか?」と呟いたところで初めて『体調の違和感』に気がついた。

それでも気がつかない程度の発熱であったし、バイトも最後までできたのだから、大したことはないだろうとイオナは思ったのだが。

ゾロはそう思わなかったようで、イオナを部屋に送り届けると、そのままあれやこれやの買い出しに向かった。

「温かくして待ってろよ。」と。

一人置いていかれたことに不安になるよりも、自分のためにサクッと行動を起こしてくれることを嬉しく思った。

「ありがとう。」

「なにが。」

「買ってきてくれて。」

「たいしたことでもねぇだろ。」

照れ臭そうにそう呟いたゾロは、500mlボトルのアクエリアスにじかにストローを突っ込んだものをベッド脇のサイドボードに乗せた。寝て起きた時に飲みやすくするためだろう。

「薬、どれにする? 」

「これ。」

差し出された三種類の薬の中から、一番軽そうなものを指差す。すると、ゾロはそれの箱を開封し始めた。

「やけに手馴れてるね。」

「そうか?」

「昔、誰かの看病とかしたの?」

「いや…。」

なんとなく歯切れの悪い返事だった。ここで初めて、よくないことを聞いてしまったことに気がつき、イオナは口ごもる。

詮索するのはよくないこと。
そんなことはわかっていたはずなのに…。

いけないことをしたと自覚した途端、無性に不安になるのは何故だろう。普段は失言に気を付けているせいか、はたまた熱を出しているせいか。

「食後に3錠だとよ。なんか食っといたほうがいいんじゃねぇか?」

まるでさっきまでの会話などなかったかのような、歯切れの悪さなど微塵も感じさせないゾロの口調。それが逆に、何かを隠しているようにも思えて、気持ちがグラグラする。

いつもよりずっと感情的になってしまっているような気がする。いつもよりずっと胸が苦しくて、不安に押し潰されてしまいそうで…

「食べない…」

「んじゃ、薬だけでも。」

ゾロが蓋の開いた瓶の首をかしげて、シャカシャカと振る。白い錠剤がその大きな手のひらに転がった。その時ふと、過去の幻覚をみた。

自分をみつめる、呆れたような視線。
迷惑と口にしなくとも、その感情はひしひしと伝わってくる。仕事をしている母にとって、大学生の家庭教師にとって、ウイルス性の風邪を引いた私は迷惑でしかなかった。

「どうして病気なんてもらってくるのよ。」そう瞳が言っている。「病気してんのなら連絡しろよ。わかってたら来なかったのに…」そう態度が口にしている。

心細いのに、寂しいのに、「もう大丈夫だよ。」と言わないといけなかった。本当は辛いのに。

差し出された薬をみていると涙が溢れた。

どうかしたか?とゾロはおろおろする。けれどそれを気遣う余裕がない。ぼんやりとした頭の中で繰り返されるのは、自分が『迷惑』な存在だった記憶ばかり。

薬を飲んだらゾロは帰っ てしまうかもしれない。何故かそう思った。さっきまであんなに満たされていたはずなのに、ちっぽけな不安で胸が締め付けられる。けれど、それ以上に"引き止めてはいけない"とも思った。

風邪を移して迷惑がられるのも、いや、それ以前に、こうして突発的に涙しておろおろさせてしまうのも、『迷惑』でしかないのだから。

「ごめん…」

「いや、別になんにも。」

「私、大丈夫だから。」

「は?」

「もう帰っていいよ…」

頭がクラクラする。鈍い痛みだったはずのそれが、次第に激しくなる。でもそれは泣いてしまったせいで、別に風邪とは関係なくて…

思い出さないようにしていたこと、思い出さないはずだったことが頭を過るのは、きっと風邪のせい。

子供の頃の記憶も、地元での暮らしも、ずっと過去のことだと思っていた。大学をきっかけに地元を離れて以来、思い出すこともなかった。けれどこうして何かをきっかけに、ポンッと頭を過る。現実を、今を歪ませる。

嫌な記憶ばかりが濁流となり、心を掻き乱し、不安を煽る。それでなくても小心者の自分を、さらに小さくしてしまう。

「ゾロ…もう帰って…」

嫌いだと、迷惑だと言われる前に"いなくなりたい"。大好きで、大切で、かけがえのない存在だからこそ、"傍に居たくない"。

好きすぎるとダメになる…

ボロボロと涙が溢れる。頭がキンキンと締め付けられ、その痛みで意識がグラグラする。全身の血流が速まり、身体中が熱を帯びる。それなのに、妙に胸の中は冷たくて、凍えてしまいそうだった。
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