一途な君のこと | ナノ

忘れたはずのこと

フロントに立ち尽くすイオナの中で、過去の虚しさが沸き上がる。自分の力ではどうすることもできなかった。仕方のないことだったあのもどかしさ。

諦めるのに丁度いい言い訳はいくらでもあったのに、諦めきれない。それどころか、言い訳が用意されていることが余計にキツかった。

『彼』にとって自分が大切な存在でないことを知った時より、自分が利用されていることを知った時より、『彼』の存在を失ったことがショックだった。

沸き上がる感情の渦の中、イオナの「忘れ去られていた」記憶は少しずつ整理されていく。不思議と脳内は冷静で、当時は持ち得なかった視点から、あの頃を見つめ直すことができる。

12歳の頃、中学に上がってすぐについた家庭教師。人懐こい笑顔の人で、よく冗談を言う人。よく大きな手のひらで頭を撫でてくれて、頑張ったな。と褒めてくれた。

彼に憧れるまでに時間はかからず、彼のために勉強した。

家政婦さんとは名ばかりのシッターさんが来てくれていたのは小学生の頃までで、彼女の代わりに家庭教師がついたようなものだった。だからこそ、『彼』に執着してしまったのかもしれない。

仕事で忙しい両親は、基本的に無関心。希望ばかりを口にして、こちらの気持ちは届かない。きっとその希望こそが両親からの愛情だったのだろうが、それを受け止められるほど聡い子ではなかった。

それでも一応理解はしていた。共働きの家庭の子が自分だけでないことも、淋しさは我慢するべきものであることも。また、仕事で毎日忙しい親を困らせるようなことをしてはいけないことも。

だからといって、褒められたいという欲求は抑えられなかった。子供ながらに、自分の存在を認められたいと思っていたし、目に見える愛情を感じたいとも感じていた。

そこに漬け込まれたのだろう。

親身になって話を聞いてくれ、優しい言葉をかけてくれる人。今思えば、角砂糖のように甘いだけの、味気のないやりとりだったが、当時の自分はそれだけで嬉しかった。

行為を求められたのは、『彼』と出逢って半年してからだ。痛くて、気持ち悪くて、それでも優しくしてくれるなら、大切にされるならと甘受した。

その感覚に慣れてきた頃に、一人の友人を紹介された。その人に身体を開くように言われた。渋ると嫌な顔をされた。そこに愛情があるのか、思いやりがあるのかなんてのはどうでもよかった。

見捨てられる。

そう察してしまったために、頷いた。嫌で嫌で仕方ないのに、切り捨てられた後の孤独を思うと、頷かざるを得なかった。

その日以降、何人か彼の友人を紹介されたけれど、拒否することが出来なかった。こちらがあまりに幼すぎるせいか、向こうが躊躇うことすらあった。

きっとこの頃には自分が大切にされていないことも、利用されていることも勘づいていた。だからこそ、それをあの人から告げられても、そこまでショックを受けなかったのだとわかる。

『彼』がいなくなったのは唐突だった。

どこまで知られてしまったのかはわからない。『彼』は、事情を知ったこちらの両親によって、切り捨てられた。母親に「あの人はもうこないから」と淡々と告げられ、小学生の頃にお世話になっていた家政婦さんが戻ってきた。その時に彼女から向けられたのは同情的な視線。

大人たちはどこまで知っていたのだろうと思う。

母は事務的に『彼』との関係を断ち切ったし、家政婦さんも昔とは違い腫れ物を扱うような接し方をするようになっていた。

結局、その地域に居続けることを母が許さず、引っ越しをすることになった。もとより友達が多かった訳でない性格のために、さらに友達がいなくなった。

そうなってからも、あの人とは会うことがあった。

彼のことを母に封書で密告したクセに、平然と連絡をしてきたのだ。会うたびに励ますようなことを口にして、甘やかすようなことばかりする。

彼にしてほしかったことを、全てあの人がしてくれた。

けれど、そんな代用品では満足できなかった。私は『彼』に愛され、大切にされたかった。それが幻だと気づいてもなお、信じ続けたかった。

引っ込みがつかなくなっていたのだと思う。ここまでしたのだから、"愛してもらえないと困る"、"自分の価値がなくなってしまう"と無意識下に考えていたのだと思う。

イオナは溜め息をつく。

すべて忘れたかったことだ。忘れようとして、記憶の中に無理矢理埋め込んでしまったことだ。それを今さら掘り起こして、何をしようというのだろうか。

ぼんやりするイオナの前に、人影が立ち止まる。反射的に「いらっしゃいませ」と口にしたところで、それが誰だかを把握した。

「ゾロ…」

「なにぼんやりしてんだよ。」

彼は心配そうな表情をしている。
グイと顔を覗きこまれ、後ずさりしてしまう。

「どうしたの?」

「休憩。コンビニ行くけど、なんかいるもんあるか?」

「ううん、ない。」

なんとなく後ろめたい気持ちになった。一瞬、何か聞きたそうな顔をしたゾロから目をそらす。

「そうか。ならいいけど…」

あからさまに落ち込んだ声のトーンに胸が痛む。反射的にごめんと言いかけるが、それを口にして気持ちが軽くなるのは自分だけだ。

なんの事情も聞かされずに謝られた方は、余計に気になってしまうだろう。

イオナが下唇を噛んだタイミングで、ゾロの手のひらがポンポンと頭に触れた。あまりに自然で、それでいて突然の動作におもわず顔をあげてしまう。

「んじゃ、行ってくる。」

「うん。いってらっしゃい。」

小さく手を振るイオナに向かって、彼は口角を持ち上げる。その表情は確かに「元気を出せ」と言っていた。
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契約社員とフロント業務を交代したイオナが休憩室に向かうと、そこにはすでにエリカがいた。近所のコンビニのプライベートブランドであるドリンクを片手に、サンドウィッチを食べている。

彼女とは街をブラついた後、一緒にここまできた。寄り道などはしていないし、そのプライベートブランドのマークはさっきゾロが行っていたコンビニのものだ。

それらが"誰によって買い与えられたものか"は一目瞭然だった。

「休憩?」

気だるげに問いかけてくるエリカに対して、イオナは頷きで答える。

ゾロが誰に何を買ってあげようが、おごってやろうが、自分には何かを言う権限はない。そう頭で理解していても、なんとも言えない苛立ちのようなものと、どうしようもない焦燥は誤魔化しようがなかった。

「それ、誰に買ってもらったの?」

「誰って、ゾロだけど?」

なんの不自然もない。そう言いたげなエリカの口調。当然のごとくゾロに買ってもらったサンドウィッチを頬張る彼女に、イオナはムッとした顔をして視線を背けた。

「なに?妬いてんの?」

「別に。」

「別にってあんた。「 そうですよ。私はヤキモチ妬いてますよ。プンプンしてますよ。」って言ってるようなものじゃない。」

エリカはからかい混じりの口調で言う。イオナは無言のままパイプ椅子に腰を下ろした。

「冷蔵庫にプリン入ってるから。」

「プリン?」

「ゾロがあんたにって。アイツって単純じゃない?どうせ、落ち込んでる女には甘いものでもあげときゃいいと思ってんのよ。人の悩みを見くびんなって話よね。」

その台詞には、やはりからかいのニュアンスが含まれていたが、どこか労りも感じられる。イオナが顔を上げると、エリカはすでにサンドウィッチの最後の一口を口に含んでおり、決して上品とは言えない表情でもぐもぐしていた。

「心配されてるって自覚はあるんでしょ?」

「まあ…」

「だったらせめて頼ってやんなさいよ。男にしてみりゃ、それを解決できるかどうかなんで関係ない。頼られることが喜びなんだから。」

口にめいいっぱい物が入っているのに、彼女は器用にそう言い切ると、口のなかに無理矢理ストローを突っ込む。もうすでに味などどうでもいいのかもしれない。ジューッとドリンクを飲み干したエリカは、その位置から空のカップをゴミ箱へ向かって投げた。

「ゾロ、なんか言ってた?」

床でコロコロとカップが転がる。イオナはそれを視線で追いながら訊ねる。どうにもエリカにはそれを拾う気がないらしい。

手元にあった化粧ポーチからマスカラを取りだした彼女は、質問に答えることなく退屈そうにぼやく。

「あんたたちは私を経由しないと喋れない魔法でもかけられたの?」

「そんなんじゃないけど…」

「私は伝書鳩みたいに頭がからっぽな訳でも、聖母のように心が清いわけでもない。悪意を持って、あんたたちを喧嘩に導くこともできるわけだけど。」

「しないでしょ?」

「どうかな。彼氏と別れた後とかならやりかねないと思うけど。むしろ、周囲に不幸になってもらうためなら、なんだってやると思うけど。」

「それ、八つ当たりじゃん。」

「なに言ってんの?人間なんてそんなもんでしょ?」

冗談めかして言っているが、エリカは本気でそう思っているのかもしれない。イオナは「どうだろ。」と短く答え、考え込むような素振りをみせる。内心、このやりとりはこれ以上続ける必要はないな。と感じていた。

もしかしたらエリカは、イオナのそんな気持ちにそれに気がついたのかもしれない。

「あのね。人間ってのは"自分が一番かわいい"もんなの。誰かを好きになるのだって、その人に自分を愛してもらいたいからでしょ?自分の心を満たしたいからでしょ?誰かのために何かをするのは、結果的に自分が救われるときだけ。偽善活動してる人たちだって、それで心を満たしてるんだから与えてるだけじゃないと思うけど?」

ここまではっきりと言い切ってしまう人を初めてみた。けれど、実際のところそれが皆の本音だろう。

もっと歳を重ねた大人たちはならば、そこまで極端には居られないかもしれないが、大学生の恋愛でそこまで深く複雑な恋愛をする必要はないのかもしれない。

「もっと欲深くなんなさいよ。気に食わないなら、周りも振り回しちゃえばいいんだから。我慢なんてバカのすることなんだし。」

そこまで手直しが必要立ったわけではないのだろう。サクッと化粧を終わらせたエリカは、ポーチを片手に席を立つ。イオナへと目を向けるようなことはしないが、意識は彼女へと向けているようだ。

「そうしてればいろいろなものが見えてくるって。大事なことも、どうでもいいことも全部。それが上手くやれれば、今悩んでることもどうでもよくなっちゃうんじゃない?」

いつもと変わらぬ軽い調子で、エリカは言う。ここで『解決』と言わなかったのは、それが過去の事であると気がついているからかもしれない。

やはり、落っこちたカップを拾う気はないようで、彼女はそれを足先で軽く蹴飛ばして部屋の隅へと追いやるとロッカーへの方へと向かう。

「にしても、ゾロってケチよね。頼んだのよりワンランク低いの買ってきたのよ。私のことバカにしてんのかしら。」

買ってきてくれただけ優しいと思うよ。とは言わない。イオナが冷蔵庫を開けてみると、普段買うそれよりもちょっと高価なプリンが入っている。

きっとゾロなりに気遣った結果なのだろう。

おもわず口元がほころぶ。それを手に取ると、その奥にはエリカの飲んでいたものよりワンランク高いカフェドリンクが入っていた。

これもまた嬉しい気遣いだ。

今度何かお返ししないと。無意識にニンマリしてしまう口元にブリンを当てて、これを選んでいる時のゾロはどんな気分だったのだろうかと考える。

その時、ロッカーの向こうから、「女の子に安物買い与えるなんて、ダメンズの手本じゃない。」という呟きが聞こえて、とうとう吹き出してしまった。

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