肯定
イオナとエリカが繁華街をぶらいついていた頃、ゾロは昔からの友人であり、ずっと連絡を絶っていた女性と会っていた。
「ゾロくんから誘ってくれるなんて久しぶりじゃない?」
「いいから早く座れよ。目立つだろ。」
空色の長髪と大きな目。かわいらしさと美しさの同居した見事な顔立ちの友人を前にして、ゾロの反応は素っ気ない。
それが照れ隠しであると知っているかのように、その女性は彼の向かいに腰を下ろすとカラコロと笑ってみせる。
「素っ気ないところも相変わらず。そんなんだから彼女が遠くに行っちゃうのよ。」
「アイツとは別れたよ。」
「あら。じゃあ、三日三晩泣いたの?」
「なんで俺が泣くんだよ。」
久しぶりに逢ったにも関わらず、テンポのいい会話ができるのはその頃の記憶が鮮明だからだろう。ゾロは笑顔を絶やさない友人に対して、なんとも言えない感情を燻らせる。
この笑顔に惹かれていた。
その肌に触れてみたかった。
そう思っていた自分がむず痒い。そして、どこかこっ恥ずかしい。あの頃は青かった。本当に若かった。
好奇心と恋愛の区別もつかなかっただなんて─
「ゾロくんてば相変わらずね。せっかく負の呪縛から解き放たれたのに、そんなんじゃモテないでしょ?」
「生憎モテモテで困ってるとこだよ。ビビも相変わらずだな。」
「相変わらずって失礼ね。綺麗になったな。とか言ってくれないの?」
ムゥっと頬を膨らますビビは、あの頃と変わらず可愛い。こうしていると、当時に時間が戻ったような感覚に陥るが、それが錯覚であることは充分に理解出来た。
「そういうことは旦那に言ってもらえよ。さすがに人妻口説く趣味はねぇ。」
「口説けなんて言ってない。ただ、ちょっと褒めて欲しかっただけなんだけど。」
不貞腐れたような顔をしてみせながらも、タイミングよく水を持って現れた店員に珈琲を注文するビビ。ゾロのカップが空になりかかっているのに気がつくと、そのおかわりも合わせて注文する。
店員は「かしこまりました」と言いつつ、ゾロとビビの双方の顔をみて、クスリと笑った。なんだか誤解されたような気がしたが、ここで訂正したところで、逆にあれこれ憶測を生むだけだ。
ゾロは無言で俯くが、彼女はまんざらでもないらしい。「やっぱり私たちって一緒にいちゃだめなのよね。ずいぶんと目立っちゃう。」と舌を出して見せる。
お前は誰と居ても目立つだろ。と言ってやりたかったが、やれ美人がなんだと煩くなりそうだったのでスルーすることにした。
いかにもカフェらしい曲が流れる店内。アンティークな雰囲気の店内に二人はどうにも馴染めない。
注文した珈琲が届くまでの間、二人は無言だった。だからといって、スマホを弄るようなことをしないのはここへ会話をしにきたからだろう。
先ほどとは別の店員が珈琲を2つ持ってきた。落ち着いた動作で、ソーサーに乗ったコーヒーカップをテーブルに置く。
その際に、陶器のぶつかり合う音がしなかったとにゾロは驚いたが、ビビはさして気にならなかったらしい。
「それで、ゾロくん。私にしか聞けない、折り入った話ってなぁに?」
「別に…」
前回、電話の際に話したのは過去のことだけだ。あの時何を思い、何を考えていたのか。どんな気持ちだったのか。当然ながら根掘り葉掘り聞くような真似はせず、ただ「あの悪態は本心だったのか」とだけ問いかけただけ。
そして、それに対する答えは『NO』
傷つけた立場であるはずの自分が、逆に彼女からごめんねと謝られた。「酷いことを言ってごめんなさい」と。
「電話でも話したけど、もうあの言葉は忘れて。私も子供だったし、冷静じゃなかったの。コーザのことが好きだったから…。」
懐かしむような物言いでビビは言う。
彼女は喧嘩をする度に別れ話を持ち出していた。もちろんそれは本心ではなく、恋人であるコーザの気持ちを試していただけ。彼はビビの期待通りにその都度慌てふためき、気を引くために様々なサプライズを用意した。
それはお迎えだったり、デートだったり、プレゼントだったり。仕事で忙しいながらも、めいいっぱい尽くした。
そんなコーザをみて、ビビの心は一時的に満たされる。「仕事、仕事」でほったらかされる淋しさを、そうして埋めることで関係を継続させそうとしていた。
けれど、先にダメになったのはコーザの方だった。仕事が忙しいのは本当で、プライベートを優先させるには睡眠時間を削るしかない。寝不足の体にムチ打つ肉体労働と、電話口から聞こえる恋人からの批判の声。ストレスの限界だったのだろう。
「だったら別れる。」そう言ったビビに対して、「好きにしろ。」と突き放した。「もっと構ってくれる男と付き合えよ。」と。
気の強いビビはそこで「嫌だ」と言えなかった。本心ではなかったと謝れなかった。泣くこともできないで、電話を切った。
たった一本の電話で破綻した関係。
そう言えば突然の心の変化のように思えるが、実際は小さなことの繰り返し。いつから心が離れていたのかもわからず、関係が長かった分だけ現実味も感じられない。
普段はガードの固いビビが、ゾロの誘いに乗って酒を呑み、ホテルまでついてきたのは喪失感のせいで判断能力が鈍っていたからだろう。
「私としてはいいきっかけになったと思ってた。ゾロくんには悪いけど、あれがもしサンジくんたったら私はきっとほだされてしまってた。」
「誰でも良かったのかよ。」
「そうね。コーザ以外の異性になんてずっと興味がなかったから。淋しさを埋めてくれるなら誰でもいいと思ってたんだと思う。」
「へぇ。」
何となくわかっていたことだ。ビビが自分に優しいのは異性だからではなく、友人だったから。そういった下心のない優しさを当時の自分は求めていたのであろうことも。
「苦し紛れに口から飛び出した悪態が、まさかゾロくんの心にずっと引っ掛かってたなんて。そんなこと思いもしなくて。あのあとすぐに彼女も出来たし、長く続いているみたいだったから…」
「期間だけはな…」
「すごくヤンチャな子だったんでしょ?」
「まあ。つか、知ってたんだな。」
「よく我慢してるわってナミちゃんが言ってた。殴りたくならないのかしらって。」
「いくら腹が立っても女を殴るかよ。」
思わず笑ってしまう。周りからはそういう風に見えていたのかと。ビビはコーヒーカップに砂糖とミルクを入れ、ティースプーンでクルクルと混ぜる。その仕草が、イオナのするそれによく似ていて、思わず魅入ってしまう。
「どうかした?」
「いや、別に…。」
「さっきからそればっかりね。」
ビビは呆れたように笑う。三年前と変わらない優しい笑顔に筋肉の強張りが取れる。どうやら無意識のうちに緊張していたらしかった。
「なにか話したいことがあったから呼び出したんじゃないの?」
彼女の瞳はこちらの心を見透かせるのではないかと疑いたくなるほど純粋で、力強い光を放っている。その瞳に見つめられると、昔からどうにもバツが悪くなるのだ。ゾロはコーヒーカップに口をつける。苦味のない柔らかな風味が口内に広がった。
「もしかして恋の悩み?」
「ブッ、なんだよ。いきなり。」
口から珈琲が溢れる。慌てて手の甲で唇を拭っていると、おしぼりが差し出された。それを受けとるのはいいが、なんとも言えない気まずさを覚える。
「会話の流れとしてはおかしいな問いかけじゃなかったと思うけど…。もしかして、図星?」
「図星っつーか…」
「どんな子なの?」
「不思議な奴。」
「不思議なの?」
「最初は芯がある奴だと思ってた。歳のわりにしっかりしてるし、落ち着いてるし。でも、親しくなるごとに弱さっつーか、脆さがみえてきて。」
「もうエッチしたの?」
「いや。付き合ってもない。」
「あら。」
ビビは驚いた顔をする。なんとなく懐かしい反応だったが、気恥ずかしさから目を背けてしまう。
「じゃあ、ずっと想ってるだけなの?」
「まあ、そんな感じだな…。」
「どうして?」
「どうしてって言われても──」
まるで誘導尋問だ。一気にあれやこれやを聞かれると答えにくいが、一つ一つ細かく聞かれると答えなくてはならないような気がしてくる。
「──強いていうなら、今の関係が居心地いいんだよ。イオナもたぶん…」
「居心地がいいなら悩むことなんてないじゃない?でも、ゾロくんは悩んでる。それって、なにか引っ掛かることがあるんでしょう?」
的確な指摘に思わずコクりと頷いてしまう。今のビビは子供を諭す母親のようだ。絶対的に逆らってはいけない空気を放っている。
「一気に距離を詰めようとすると、不安げな、泣きそうな顔をされる。あれがどうにも…」
あの時のお前を思い出してしまう。とは言えなかった。なにもかもが壊れてしまったように思えたあの瞬間の、あの痛みが甦る。
「でも拒まれはしないんでしょう?」
「まあ…」
曖昧な返事しかできない。イオナが自分を拒むことはあるのだろうか。
「拒絶されるのが怖いの?それとも、嫌われてしまうのが怖いの?」
「それは─、」
ビビは真っ直ぐにゾロを見据える。
エリカとやり取りするときとは違う、明白な解答を求める会話。全神経の感覚が張りつめる。
どうしてなんでと繰り返し自問自答してきた。今の安定した関係に満足しようとしてしまうのは脅えからか。踏み込むことを尻込みしてしまうのはヘタレだからか。
自分の中では引き出せなかった答えが、少しずつ明白になっていく。
「─たぶん、泣かれるのが嫌なんだ。」
「罪悪感を覚えるってこと?」
「あぁ。」
「大切にしたいのね?」
「そりゃそうだろ。」
イオナの方から求めてくれれば、いくらでも手を出せたと思う。ただ、もしそうであれば、今ほど彼女を大切には思わなかった。むしろ、これまでの女性と同じように「呆れ」を感じていたかもしれない。
結局、お前もそれが目的なんだろう?と。
イオナの顔を思い出すと、不甲斐ない自分に苛立ちもするが、それ以上にホッとするなにかがある。ベタベタと甘えてくるわけでも、泣きすがってくるわけでもないが、彼女が自分を必要としてくれていることは雰囲気で充分に伝わってくる。だから…
「だったら間違ってないんじゃないかな。」
ビビは優しい口調で言う。
「ゾロくんが彼女を大切にしたいって気持ちは充分に伝わってきた。久しぶりに逢った私にわかるほどだもの。きっと彼女にも伝わってるよ。」と。
それは、ずっと欲しかった言葉だった。自分を肯定してくれる台詞が欲しくて、わざわざビビを呼び出したのだ。ゾロは自分の浅ましさを感じると同時に、思っていた以上に自分が子供のままであることを思い知った。
「ゾロくん変わったね。」
「そうか?」
「ずいぶん人に心を開くようになった。」
朗らかな笑みに心が安らぐ。今思えば、この笑顔は"あの頃"の唯一の癒しだった。
「旦那と上手くやれよ。」
「言われなくてもラブラブに決まってるじゃない。」
伝票を持って席を立つゾロに、ビビはニッコリと笑って見せる。そんな笑顔を誰にでも振り撒くもんじゃない。内心そうぼやきつつ片手をあげ、彼女に背を向けた。
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