恋の残り火
結局、湯船に湯を張ってしまった。
シャワーを使いながらだったので浴槽の半分程度までしか溜まらなかったが、それでも腰や足先が湯に浸かるのは気持ちがいい。
入浴剤はあまり香りのキツくないものにした。どんな匂いを好むのかゾロに聞いてみよう。次からはそれっぽい匂いの入浴剤を用意しよう。
別に一緒に入るわけでもないのに、少し考えすぎかもしれない。けれど、イメージだけで動くとさっきみたいに「あれ?」となりかねない。
鍛えている=健康志向である
イオナはそう思っていたのだが、ゾロに全くその気はなかったらしい。普通に生活していてあそこまで筋肉隆々になるとは思えないが、本人が意識していないというのだからそうなのだろう。
またひとつゾロのことを理解できた。
それがほんの小さな、些細なことだとしても嬉しくて仕方ない。別に特別なことなどなくていい。傍にいられたらそれでいい。
今日もまた、"そういったこと"にならないことは理解していた。だからこそ、緊張することなく風呂から上がったイオナだったが。
一応、真新しい下着を身に付けることは忘れなかった。
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入れ替わりに浴室に向かったゾロを見送り、いつも通りにドライヤーで髪を乾かす。短くなってから随分と楽になった。就寝前はパーマを出す必要もないので、ワシャワシャと一気に熱風に晒す。
ドライヤーのプラグを指しているコンセントには、いつの間にやら持ち込まれたゾロのスマホの充電器が差さっている。スマホ自体は俯せの状態でベッドに置かれていたのだが、コード同時が絡まったのか、コテンとそれが滑り落ちた。
ドライヤーを切り、充電中のゾロのスマホを拾い上げる。お互いにいつも適当にそれを放置しているが、今思えば無防備すぎだ。イオナのスマホも、ベッドのコンセントから伸びる充電器に差さったままでほったらかされている。
お互いに中を見ようと思えばみられる状態だ。
それはちょっとした誘惑だった。湯船に湯が張ってある今日なら、多少しつこく弄ったところで時間には余裕があるだろう。
元カノとどんなやり取りをしていたとか、今も連絡を取っているのかとか、その他の女友達事情とか…調べようと思えば余裕だ。
ドキドキした。
無干渉の領域に踏み込もうとするその瞬間は、妙な高揚感があった。恋の始まりとは異なるリズムで脈が刻まれ、指先が震える。やけに生々しいスリルが気持ちを急かすが、ほんの少しの躊躇いがイオナを理性ある状態へと引き戻した。
「付き合っているならまだしも…」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、小さく溜め息をつく。内側から込み上げてくる切羽詰まった感覚に酷く緊張した。
実際には交際していたとしても、相手のスマホを覗き見て良いわけではない。ただ、今の関係では「覗き見たい」と思うこと自体がおこがましいことであり、危険な欲求であることは間違いない。
イオナはベッドの元あった位置にスマホを戻そうとするが、そこでスマホが震え、鳴った。画面に表示された文字が、数字の羅列が目に入る。
「マリ…?」
イオナはゾロから元カノの名前を聞いたことはなかった。ただ、直感でマリというのが、ゾロのかつての恋人の名であることを理解してしまった。
「連絡取ってたんだ…」
それでもいいと思っていたはずのに、妙に傷ついている自分がいる。ほんの数分前に「身代わりにでもいい」と改めて考えたはずなのに、不安に揺らいでいる自分がいる。
ダメだ。これ以上考えちゃダメだ。嫌な女になる。めんどくさい女になってしまう。
イオナはゾロのスマホをベッド脇に投げ置くと、慌ててベッドの端、いつもの位置に潜り込んだ。
問い詰めたい。元カノと現在はどんな関係なのか。元カノのことをどう思っているのか。どのくらい連絡を取っているのか。
どうして、どうして、どうして。
どうして私だけじゃないの?と問い詰めたい。
矛盾している。こんなのは理不尽な怒りだ。情けない。かっこ悪い。でも、どうしても嫌だ。誰かに取られるなんて嫌だ。怖い。嫌だ…。
焼け木杭に火がついたとか
結局、今の関係に胡座をかいていただけだ。都合の悪いことからは目を背けて、おいしいところだけ受け止めようとしてして。
違う。そうじゃない。そんな安っぽいもんじゃない。そんな簡単な感情じゃない。
混沌としていた。均衡を保っていたはずの感情のバランスが一気に崩れた。ダメだ。こんなんじゃダメだ。ダメなのに、わかっているのに、どうして…
恋愛なんて理不尽で不条理なものだ。形のない感情だけの交渉は盲目的で、深くはまればコントロールが効かない。
嫌だ。冷静になれ。嫌だ。落ち着け。嫌だ…。
イオナは布団の端をギュッと握る。瞼を固く閉じる。そこでベッドが震えた。また着信だ。無駄に明るい着信音が鼓膜を揺らす。
嫌だ。やめて。どうして?
音が止む。それでも耳鳴りのようにその音が繰り返される。それに導かれるように、とうの昔に忘れたはずの感情が逆流し始める。
嫌だ。もうこれ以上思い出させないで。
心の中で悲鳴をあげたタイミングで、ドアがガチャリと音を立てた。ゾロが浴室から戻ってきたのだろう。「あれ?」と不思議そうに声を漏らした彼の気配が近づいてくる。
「イオナ、寝てんのか?」
声の距離が近かった。きっと、ベッドの脇に腰を下ろしたのだろう。ポンッと肩の辺りを叩かれたが反応はしなかった。
寝ているフリをしているのは心苦しいけれど、今は落ち着いて居られる自信がなかった。理不尽な不満をぶつけてしまいそうだった。
ゾロは小さく何か呟いたあと、部屋を出ていった。浴室の方からドライヤーの音がした。気遣ってくれたのだろう。
言いたいことを言えたらきっとずっと楽になる。けれど、楽になるのは自分だけだ。相手に負の感情をぶつけてしまえばその感情は連鎖する。
熱風を放つ轟音を聞きながら、つっかえたままの胸の辺りをグッと押さえる。気持ちを伝えるのが苦手なのは性分だ。感情を表現するのが下手なのも性分だ。
だから仕方ない。沈黙するしかない。
部屋に戻ってきたゾロがベッドに横になった。枕元にあったライトで照明が落とされる。いつもよりも躊躇いなく、背後からギュッと抱き締められたタイミングで熱い息が首筋にかかった。
今感じているこの熱すらも、春先の雪のように溶けて流れてしまったら。
いつもなら満たされる熱にすら、不安を覚えてしまう自分はどうかしている。どうしていいのかわからなかった。
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