一途な君のこと | ナノ

見ぬもの清し

イオナがバイト先に出たのは、ケバ子vsエリカ事件の2日後のこと。自分のことで精一杯だった彼女は、周囲で変な噂が立っていたことにも気がついていない。

もとより他のスタッフとは挨拶程度しかしないので、避けられているのか、普段通りなのかもイマイチ理解できなかったかもしれないが。

それでもケバ子からの挑発以降、イオナなりに、何か言いふらされている可能性については考えていた。もし話すならば多少大袈裟に、尾ひれは付けているだろうとも。

それでも逃げる気はさらさら無かった。

バイトをしないと食べていけない訳じゃない。親からの仕送りは他の学生と比べれば多い方で、辞めたって困る訳じゃない。

それでも辞めたくないのは、ゾロとの繋がりを無くしてしまうから。

どんなに冷たい風を浴びることになっても、ゾロがいる。エリカがいる。気にすることなんかひとつもない。

心の底では、楽しくなってきていたバイト先で嫌な思いはしたくないと思いつつも、イオナは普段どおりに出勤し、何となく、違和感に気がついた。

普段ならすれ違っても会釈する程度の女性スタッフたちが、少しだけ馴れ馴れしく、それでいてぎこちなく言葉をかけてくる。

「今日は寒いですね。」とか、「お客さん多くて大変でしたよ。」とか。なんとも当たり障りのない内容で、親しみを込めるように。

それなりに当たり障りのない対応をしたイオナは、違和感について考えながら休憩室に入る。自分が休みの間になにかあったのだろうか。いや、そんな訳がない。もしあったのなら、エリカから連絡が入るはず。

「他人の不幸で飯が旨い」などと言ってしまうタイプの彼女が、そんな旨いネタを黙っているはずがないのだから。

その"メシウマ好き"が全てを解決し、この状況を作り上げたとも知らず、悩み続けるイオナに声をかけたのは、ロッカースペースから制服姿で現れたやいやいくんだった。

「あっ!イオナちゃん、おはよ!」

いつものように、人懐こい声色と笑顔で声をかけてきた彼がめんどくさい。嫌いではないものの、やっかいな存在でしかないバイト仲間にイオナは愛想笑いで挨拶を返し、入れ替わりでロッカースペースへと入る。

彼が追いかけてこないのはわかっていた。ここでまたロッカーの方に戻ってくれば、「ついてきた」と十中八九バレてしまうからだ。彼のアピールは露骨な方だが、そこまで酷くないのが救いだった。

イオナはロッカーの前でシャツのボタンを閉めていた男性スタッフに「おはようございます。」と声をかける。

彼は柔らかい口調で挨拶を返してくれ、その上で「災難だったね。いろいろ大丈夫?」と心配そうな顔をした。

「なんの話ですか?」

「いや、あのケバ子が…」

彼が口に出来たのはそこまで。年上の男性スタッフを黙らせたのは、いつの間にかイオナの背後に立ったエリカだった。

「なに?あんたも前歯ふっ飛ばされたい?」

「いや、俺。保険外治療とか怖いしいいよ。」

「なにいってんの?吹き飛んだ歯の治療はちゃんと保険使えるわよ?」

「いや、そうじゃなくて…」

きっと彼は、前歯ふっ飛ばす発言を"素人の荒療治"とみなして、皮肉を口にしたのだろう。しかし、そんな命がけの冗談は一切気づかれることはない。あっけらかんとした表情のまま「前歯って上にも下にもあるしさ。」などと宣うエリカは鬼畜かなにかか。イオナは半分あきれながらも訊ねる。

「あんたもって…。もしかして、すでに誰かの前歯、ふっ飛ばしてるの?」

「まぁ、偶然の賜物ってヤツ?たまたま吹き飛んだの。わざとじゃないから無罪よ。」

「傷害事件だと思う。」

エリカの暴行発言に対して、イオナは淡々と話を進める。暴力は好きではないが、おこってしまったことは仕方ない。そんな物言いが聞いている側からすれば不自然であり、非合法なもののように思えた。

イオナちゃんは、その場にいなかったから落ち着いていられるんだ…。

"すべてをみていた"男性スタッフは、その時の光景を思い出し、背筋を凍らせる。あちこちに飛び散った血液も、床に転がる赤い前歯も、呻いてのたうち回る女も。彼にとってはトラウマでしかない。

「この話はここまで。私は武勇伝なんて語らないし、誰かに褒め称えられるのも苦手なの。」

「そうとは思えないけど。」

「どうとでも思ってなさいよ。」

エリカは上機嫌な様子で自身のロッカーの前に立つ。これでこの話は打ち切り。という意味なのだろう。

イオナはそれ以上なにも言わないつもりだったが、彼女がそこにまだ男性スタッフがいるにも関わらず、服を脱ごうとし始めたことには驚いた。

「おい。今脱ぐなよ!?」

「なに?見たいなら見てれば?お金は取るけど。」

「勘弁してくれよ。」

完全におちょくられる形となった可哀想な男は、深い溜め息と共にロッカースペースから出ていく。イオナは彼の背中を見送ったあと、「今日、20時からだったよね?」とエリカに問いかけた。

「代わりに出てくれって。」

「代わり?」

シフトを確認するとこの時間はケバ子の出勤シフトだった。もしさっきの話と繋がっているのだとしたら、前歯が吹き飛んだのはケバ子ということになる。

いや、先ほどの会話の流れ的に、前歯を吹き飛ばされたのは100%ケバ子なのだろう。

(でもなんで?)

イオナはあのbarとエリカの関係を知らない。それどころか、パーティや薬のことも知らないために、そこまで根が深いなにかがあるという考えには至らない。

(もしかして…、私のため?)

噂の件はこの騒動のきっかけでしかないのだが、その事実を知らない彼女は純粋に嬉しいと感じる。前歯を吹き飛ばすというのはやり過ぎな気もしないではないが、自分のために誰かが怒ってくれるという事実は嬉しいものだ。

「しつけって大事よね。」

「そうだよね。」

得意気なエリカと、無愛想な表情ながらどこかほっこりした雰囲気を醸し出すイオナ。その理由が流血騒ぎでさえなければ、とても素敵な友情話のようにも思えるが──ケバ子がありえない額の借金を背負わされ、前歯が差し歯になった事実は変わらない。
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本来、20時にフロアとして出勤する予定のエリカが18時からフロントに立っているということは、20時からは誰かが彼女の穴を埋めなくてはならない。

そこで白羽の矢が立ったのはゾロだった。ゾロ自身も薄々勘づいてはいたが、エリカとはセットのような扱いを受けている。イオナがフロアの仕事を覚えるとなった時に、すんなりとゾロが彼女を受け入れられたのもそのおかげ。

結局のところ、普段のフォローだけでなく、いざござの尻拭いもさせてしまおう、ということなのだろう。

他のスタッフたちが仲のいい者同士でつるむのとは異なる、違和感のある余り物同士の関係。上下関係こそないが、完全に主導権や発言権はエリカが握っている。

これまではそれに実害があったわけでもないので、気にこそ止めていなかったが、こうして駆り出されるハメとなるのは多少迷惑だった。実際、昨日もエリカ(大事な予定があったらしい)の代わりに駆り出されているのだから。

他のバイトから向けられる同情色の強い視線を無視しながら、制服に着替えたゾロはパントリーに向かう。

あれだけヒソヒソと噂を回しておきながら、平然としていられるスタッフたちの神経がわからない。イオナ本人がなにも知らないのだから、謝る訳にもいかないのもわかるが、なんとなくモヤモヤするところがあった。

そんな中で、ゾロ同様にイオナの潔白を信じていた彼だけは何故か元気いっぱいだ。

「おっ!ゾロ、おはよう!」

「よう。」

普段より一層テンションの高いやいやいくんに対して、ゾロは若干引き気味に挨拶を返す。なにがあったのか聞いた方がいいのだろうが、朝から動きっぱなしだったため、このテンションに付き合うのはキツかった。が。

「昨日はありがとな!ゾロがエリカちゃんの代わりに出てくれたおかけで、俺、やっと解放されたんだよ。」

彼は一方的に話始める。もう一人の男スタッフが苦笑いで、肩を竦めている辺り、この興奮状態はずっと続いているものなのだろう。

「泣きながら電話がかかってきたり、家まで訪ねてこないんだなあって思うともう嬉しくってさ。」

「なぁ、お前なんの話してんだ?」

「なんのって…。昨日、エリカちゃんが開いた合コンの話だけど?」

まるで悪びれた様子もなく、とんでもないことを言い始めたやいやいくん。ゾロはさらに深く眉間にシワを刻むが、ハイテンションな彼は空気を読むことを忘れてベラベラと喋る。

話が一段落したところで、相づちすら打っていなかったゾロがやっと口を開いた。

「へぇ、それがエリカの外せない用事ってな訳か。」

「もうさ、助かっちゃって。俺、一生エリカちゃんに頭上がんないよ。」

「お前の一生は安いな。」

「ゾロはしつこく言い寄られたことがないからわかんないんだ。俺がどんだけ…」

確かにしつこくセフレに付きまとわれてお手上げ状態だった彼に同情はしたが、だからといって不幸自慢を聞いてやりたいとは思わない。

ましてや、人の苦労を踏み台にてヘラヘラしている男に対して、「よかったな。」なんて言葉が出るわけがない。

「まあ何でもいいけど、自分の行動には責任持てよ。」

無駄話はほどほどに、ゾロはパントリーを後にする。まだなにもしていないのに酷い疲労感だった。







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