一途な君のこと | ナノ

体温と呼吸音

ゾロのばか!

逃げるように脱衣所に飛び込んだイオナは、深呼吸を繰り返す。胸がいっぱいで肺が圧迫されるような、まるでマラソンの後のような息苦しさ。止まらない体温の上昇で、額にはうっすらと汗が滲んでいる。

「ばか。ばか。ばか…。」

だって、方向音痴だし。一人じゃ帰れないし。だから、泊まると思うじゃん。別に下心なんてない。そうするつもりだと思ったから。泊まってほしいなんてそんな…。

イオナはぶつくさと呟きながら衣服を脱ぎ捨てる。下着は手洗い、スカートとニットはドライだ。それぞれのラックに放り込み、それ自体を大きめのタオルで覆い隠し、冷えきった浴室へと入る。

低めの温度に設定したシャワーを浴びているうちに、頭は冷えてくるだろうと思っていた。けれど、この状況が、思い出されるゾロの仕草が、いちいち心を掻き乱して、意識を持っていかれる。

この後どうなってしまうのだろう。
何を喋ればいいんだろう。
どんな風にゾロは…

額がコツリとぶつかった時、すごく熱かった。体温なんてほんの1度ほどしか個人差はないはずなのに、熱くて、暖かくて、優しくて。

「あぁ!ダメだ。馬鹿は私だ。」

ジンジンする。身体がジンジンする。

シャワーの温度を更に下げてみるけど、熱くなった身体と肌を伝う水流との温度差のせいか、全身は火照っていく。

どうしようもない。この部屋にゾロがいる以上、これは"どうしようもない"ことなんだ。

諦めたイオナは、再びシャワーの蛇口を捻る。いつもと変わらない温度の湯が肌を伝い、次第に馴染んでくる。

『勝手に帰ったりしねぇから。』『自分を嫌いになるな。』『忘れりゃいいんだよ。』

タイルを打つ、シャワーの音は聞こえない。ゾロの声だけが繰り返し脳内で反響していた。
………………………………………………………

入れ違いにシャワーを浴びたゾロが戻ってきたとき、すでにイオナの髪はすっかり乾いていた。ベッドの縁に腰かけたまま、まだ熱を持ったままのドライヤーを手渡すと、彼は座椅子に腰をおろし、緑色の短髪をワシャワシャとしながら乾かし始める。

ゾロは着ていたままのブラックのTシャツに、貸したスウェット姿。Tシャツから見える太ましい腕は、無駄な脂肪が一切なく、しなやかさが感じられない分、充分な逞しさがみてとれる。グレーのスウェットは丈が短く、くるぶしが見えていた。

トクントクンと鼓動が鳴る。

これまでも筋肉質な男の人の相手は何度かしてきた。けれど、それは俗に言う細マッチョと呼ばれる体つきの人であって、ゾロのような筋肉隆々な人は初めてだ。

唯一露出した部分である腕以降、指先までをまじまじと観察してしまう。その逞しさのせいか、はたまた、無骨な指先のせいか、粗野なのではと考えてしまう。

それでも抱き締められたいと思う。

どのような感触なのだろう。どのくらいの温度なのだろう。どんな風に肌に触れるのだろう。思考を巡らせるほどに、よからぬ方向へと進んでいってしまう。

意識してはいけない。

イオナはベッドに潜り込んだ。壁に額をくっつけ、ミノムシになる。考えるな。気をそらせ。と自分自身に言い聞かせるけれど、豪快なドライヤーの音がそれを許さない。やがて豪快な熱風音が止んだ。

コンセントが引き抜かれ、本体にコードを巻き付けるような気配。コトンとテーブルにそれを乗せる音がした。

今思えば予備の布団などない。ゾロはどこで寝てもらおう。ベッドに寝てもらって、自分が床で寝ようか。それとも…

イオナは空回り気味の脳みそで懸命に考える。そうこうしている間に、ゾロが立ち上がったのがわかった。

─どうしよう。

丁度いい言い訳が思いつく訳でもなく、代用品があるわけでもない。かといってゾロに床で寝ろだなんて言えるはずもなく─

悩みに悩んだイオナが身体を起こそうとしたその時、ベッドの空いているスペース、つまり彼女のいる反対側がグッと沈んだ。

「ちょ、ちょっと待って…」

バッと身体を起こし、振り返る。ゾロはスマホを片手に、当然のように隣に横になっていた。

「どうせ俺が寝こけた後に、コッソリ入ってくるんだろ。」

「いや、それは…ッ」

「俺じゃあ不服か?」

イオナは返事に困り押し黙るが、結局は元居たように横になり、壁に額を張り付ける体勢に戻る。前回はお互い酔っていたし、ゾロは眠っていたから平気だった。条件が全く違う。

けれど不服な訳がない。

「おやすみ…。」

「おう。おやすみ。」

緊張で身を固くするイオナに対して、ゾロは面白がっている時と同じ声色で返事をし、枕元にあったリモコンで照明の灯りを消してしまう。せめて、オレンジ色の電球は残してほしかった。

真っ暗の中で二人分の呼吸が互い違いに繰り返される。あれほど触れたいと願っていた存在がすぐそばにあるのに、寝返りを打つことも、手を伸ばすことも出来ない。

眠ってしまえば楽になるのだろうが、早鐘を打つ心臓がそれを許さない。まるで眠ることを拒むように、ドッドッドッドッと激しく鼓動を刻む。

いっそ触れられてしまえば楽になるかもしれない。そうも思った。中途半端に距離をつめて、そこで停止してしまうから余計に緊張してしまうのかも。と。

心を落ち着かせたくて、イオナは小さく深呼吸する。大丈夫。落ち着け。と自分自身に言い聞かせる。けれど、そのタイミングでゾロが溜め息のように深く息を吐きながら、寝返りを打った。

首筋を熱い空気がかすめる。さらにハッキリとした彼のリズムに肌が熱く火照る。思わず息を詰めてしまう。

ほんの数秒前までは、触れられてしまえばと考えていたのに、その状況となると気持ちが焦る。

どうしよう。どうしよう。と繰り返す。強い緊張と重圧に涙腺が緩む。固く閉ざした瞼からうっすらと涙が滲み、不安を意味する言葉が唇から溢れそうになる。

下唇を強く噛んだイオナの脇腹に、想像よりずっと柔らかな重みが乗っかった。くびれを包み込んだ彼の腕は、緊張で強張った身体を優しく引き寄せる。背中が触れたのは彼の胸板だろう。ひどく熱い。うなじにかかる息づかいに、太ももに重ねられた筋肉質な脚に、身動きが取れない。

ドキドキした。ただひたすらにドキドキした。
それでいて温かくほっとする。

(こんなんじゃ、寝れないってば。)

胸中で呟いたイオナの脇腹にのっかっていた圧が消える。その代わりに固く握られた拳に、無骨な指が絡み付く。

見た目以上に繊細な動きをして見せる指先は、手首から手のひらにかけてなぞるようにしてそれを押し開く。指と指を絡め、手のひらを重ね、互い違いに絡めた指をギュッと握られた。だから、反射的に握り返す。

不思議と手のひらの湿っぽさが心地よく、確かにわかる相手の感覚で不安が遠退く。

「早く寝ろよ。寝坊するぞ…」

からかい混じりに放たれた言葉に、イオナは口元を緩めるだけ。 緊張感と安心感が共存する、違和感だらけの中で、次第に身体の強張りはほどけていた。

二つ分の鼓動。二人分の呼吸音。熱っぽい体温と、季節外れの汗の湿っぽさ。温かな充足感に包み込まれ、甘さだけが際立って─

気がつけば眠りに落ちていた。

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