無音だった部屋に、ガチャリとドアノブの回る音が響く。シャワーを浴び終わったのであろうイオナが、部屋へと戻ってきたのだ。
いつもよりずっとあどけなく見えるのは、たぶん化粧を全くしていないから。彼女が身に付けているのは、下着に毛が生えた程度にしか肌を隠していない薄手のキャミソールに、太股の全てを露出するようなショートパンツ。
みてはいけないものを見てしまったような気がして、ゾロは慌てて目を伏せる。イオナもまたゾロが起きていたことに驚いたらしい。
「お、おはよう…」
裏返った声でそう言うやいなや、バタバタと大きな音を立てて部屋を出ていく。どうにも、クローゼットから衣服出したようだ。扉が半開きのままになっている。
イオナは普段、心臓に大木が生えているかの如く動じない。そんな彼女の慌ただしい動きに、おもわず口元が緩む。本人に伝えれば嫌がられるかもしれないが、純粋に可愛いと思ってしまう。
それだけじゃない。昨日の怒っている時の態度も、口ぶりも、泣き顔も、全部可笑しくて、可愛かった。
もっと言えば、気がつかないように目を背けていただけで、それ以前の細々としたやりとりのほとんどに、淡い感情を覚えていたのは確かだ。
そういった些細なやり取りの度に覚えた感情の機微が鮮明に思い出され、「惚れてい るんだ」と改めて確信した。
「ゾロも、シャワーつかう?」
再び戻ってきたイオナはさっきよりもちゃんと肌を隠した格好をしていた。それでも髪はまだ濡れているし、俯いて隠しているつもりなのだろうが化粧をしていないのは一目瞭然だ。
「なんでシャワー…」
「化粧したいの。ここにいられると困るから。」
「あぁ、そうか。」
一瞬、誘われているのかと思ってしまった自分を殴りたい。誰もかれもが、マリのように股が緩くてはたまらない。
「じゃあ、風呂場借りるわ。」
「うん。」
イオナが目を合わせようとしないのは、やっぱり化粧の問題なのだろう。ベッドから起き上がり、俯いたままの彼女の隣を通り抜ける。
シャワー後の濡れた髪から漂う、潤いあるシャンプーの香り。それに理性と本能をかき乱されそうになり、慌てて息を止めた。
……………………………………………………
普段通りいそいそとシャワーを済ませたゾロは、大ぶりのタオルで頭をワシャワシャと拭きながら部屋へと戻る。
パンツとジーンズは履いているものの、上は髪が濡れているため袖を通していない。どうにもそれがダメだったのか、まだメイクの終わっていないイオナは目を真ん丸くしてフリーズした。
「早かったか…」
「うん、予想よりずっと。」
「悪ぃな。」
「それより…」
言いにくそうに言葉を詰まらせたイオナの頬に色味が差す。ほんのりピンク色に染まったところで、彼女はハッと目を伏せた。
「服、ちゃんと着てよ。」
「え…あぁ。悪い。」
照れるわりにはバッチリ見るんだなとは言わない。ただ、怒ってもいないくせに、眉を寄せた膨れっ面をするイオナは意外で面白かった。
大量の化粧品を次々と手に取り、鏡と睨めっこ。クリームのようなものを塗ったり、パフパフと頬を叩いたり。正直、なにが変わっているのかわからない。
「なぁ、まだやんの?」
「何が?」
「化粧。そんぐらいのがいいと思うぞ。」
「そんぐらいって…、まだベースしか弄ってないけど…」
「でもごちゃごちゃしてるよりそっちのが─」
そこまで言ったところで、イオナが露骨に嫌な顔をする。まぁ、して当然と言えば、当然だ。
「ごちゃごちゃって…」
「いや、別に悪い意味じゃなくてな。」
「じゃあ…」
「まんまのが可愛いんじゃねぇのって言ってんだよ。」
言ってしまってハッとする。彼女の強い口調に流れたにせよ、ここまでドストレートに伝えるつもりはなかった。照れ臭くて仕方ない。
イオナもまた、ずいぶんと照れていた。口をパクパクしながら目を白黒させている。もちろん顔は真っ赤だ。
こういう時、どうすればいいのか。
こんな経験は初めてで上手く取り繕えない。
「いや。だから、あれだ。俺は別に…。」
「いいよ、気にしてない。」
気にしろよ。反射的にそう言ってしまいそうになり、言葉を飲み込む。言い切った彼女の声の震えからして、気にしてない訳がなかった。
どきまぎした様子のイオナは、慌ただしい動作でポーチからペンのようなものを取り出した。それを使うか、使わないか。一度は迷った仕草を見せたものの、結局は使わず片付けてしまう。
どうやら素直に喜ぶようなことこそしないものの、褒められるのは嫌いではないようだ。
イオナは広げていた化粧品を、ポーチとその隣にあるかごに片付け始める。
「そういえば、やいやいくんにも言われたんだよね。」
まるで世間話でもするかのように彼女は言うが、聞かされた方からすれば気が気じゃない。どこで、いつ、どんな風に"化粧を落とした顔"を見られたというのか。
おもわず、「あ?」と不機嫌な声が漏れた。
「化粧してないほうがいいって。」
「なんで?」
「なんでって、そんなの…」
聞かれている意味がわかりません。そう言いたげに眉を潜めた顔をあげたイオナは、ちょっとだけ驚いたような顔をする。
「ゾロさ、怒ってる?」
「いや、そんなんじゃねぇけど…」
「じゃあなんで。」
不安そうな顔をさせてしまうほど、自分は殺気立ってしまっていたのだろうか。イオナは困ったように視線を泳がせた後、ポツポツと呟く。
「寝坊して、バイト行く前にメイクできなかっただけ。なんにもないって…」
怒るのではなく、困っている。そんな様子で彼女は口をつぐむ。
やってしまった。そう思う反面、「こんな顔をするんだな。」などと場違いなことを考えてしまったのも事実。
なにより、もし仮にイオナが他のスタッフと"何かをしていたとしても"、キレれる立場ではない。そのことをすっ飛ばして、苛立ちを露見するだなんでずいぶんと格好の悪いことだ。
なにも悪くないのに、イオナは感情のない表情のまま黙りこくっている。無駄話をしている時にふと見せる、深刻そうとも憂鬱そうとも違う、暗闇を連想させられる表情。
見ているほうが不安になる顔だ。
「なぁ、イオナ。」
まるで彼女呼び戻すかのようにゾロが声をかけると、イオナはハッとした様子で顔をあげた。
いつもと同じリアクションだ。どうした?と聞いても、大丈夫だよ。と軽く笑うが到底そうは思えない。
一体なにを考えていたのか。
もっと知りたい。イオナを知りたいと思った。
「飯でも食いに行くか?」
「え?」
「バイトまで時間、あるだろ?」
「うん。」
イオナは嬉しそうに頷いた。まるでそれまでの会話などなかったかのように、目を輝かせて。だからこそ、余計にゾロの追求心を刺激した。
いったい、なにがあるのだろうかと。
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