「よ、よし。今晩飲みに行こうっ!奢るよ?」
自分の気持ちすらもわからず、つい口についたのはひどく軽い台詞。無理して明るい声を出したものの、喉の奥が震えてしまった。声のおかしな響きに気がつかれたらどうしよう。
イオナの心配をよそに、「女が奢るとか言うなって。」とゾロは普段通りに笑う。いつもと変わらない声で、口調で笑うのだ。
なんでそんな気丈なの。
そう問いかけたくなるほど自然な笑顔だった。
舞い上がっていた自分はバカだ。最低だ。
ゾロは失恋していたのに、私は…。
悲しくて苦しかった。
まるで自分ことのように胸が痛かった。
どうしてこんな風な気持ちなるのかわからない。
それでも…
「なんでおめぇが泣くんだよ」
ゾロの言葉にハッとする。無意識のうちに涙が頬を伝っていた。慌てて手の甲でそれを拭って、首を左右に振ってみせるけれどもちろん意味はない。
「泣くなって。ほら、俺が泣かしたみたいだろ。」
「ごめん…」
「なんで謝るんだよ。」
「気遣わせて、ごめん。」
恋人からのメールを読むときの嬉しそうな顔や、電話してるときの優しい声や、からかった時の照れた顔も。
自分が大好きだった動作のほとんどは、恋人に向けられたものだった。恋人のためのものだった。
それでよかった。
その姿を見ていられるだけでよかった。
だからこそ、不安だった。
「それはいいんだよ。けどな、泣くな。な?」
しゃがみこみ食洗機に隠れたイオナの隣までやって来たゾロは、ただおろおろする。
困らせたくないのに、涙は止まらない。首をぶんぶんと振って謝ることしかできない。
手の届かない理由がなくなってしまった。
これからは『自分という存在の小ささ』と向き合っていかなくてはいけない。
愛とか、恋とかとっくに諦めた自分のダメさと…
どうせ私なんて。
こんな風に胸が痛むのは、きっとゾロが失ったものの大きさを知っているから。
もう二度とこんな思いはしないと決めていたのに、だから諦めていたのに。
どうして、なんで、私は…。
自分の過去とゾロの今がごっちゃになってくる。思い出したくもない感情がドッと甦り、それを吐き出すように涙が溢れる。
嗚咽をこらえるため強く下唇を噛んだところで、ガチャッと重ねた食器のぶつかる音が鳴った。イオナが反射的に息を潜めたのと対照的に、ゾロはパッと立ち上がった。
「あれ?イオナいないの?」
「いや、居るにはいるんだけどよ…」
聞こえたのが相変わらずやる気のないエリカの声だったことにホッとする。ただゾロについては彼女に責められると思ったのか、ぎこちなく言葉を濁す。
「なに?あんたらまさかここで…」
「ヤってねぇよ!」
あからさまに狼狽するゾロがおかしかったのか、彼女はケタケタと笑う。「お前いい加減にしろよ。」と言われても、気にする様子はなかった。
「ちょっと、イオナ。あんたなにやってんのよ。そんなとこで…」
「ごめん、ちょっといろいろ…」
鼻声で返事を返したからか、はたまた、蹲ってる時点で全てに気がついていたのか。エリカはゾロに「外お願い。こっちは私が始末するから」と声をかけた。
「いいけど、イオナを始末すんなよ。」
「それはどうかしら。」
きっとエリカはいつものシレッとした顔をしているのだろう。手のひらを顔の横でヒラヒラさせる彼女の様子が思い出された。
ゾロの足音が遠退いていく。
呼び止めたいけれど、エリカの手前なにもいえなかった。
彼が部屋を出たのを確認した彼女は、イオナに歩みより、ゾロの居た位置に仁王立つ。
「しっかりしなさい!バイトの人手足りてないのよ。」
顔をあげたイオナはエリカのその真面目な表情を前に、つい笑ってしまいそうになった。
慰める訳でもなく、理由を聞くわけでもなく、側にいてくれる。
「頑張りなさいよ。もうちょっとのことなんだから。」
「うん。」
「よかったじゃない?」
「なにが?」
「ゾロがあんたのためにオロオロしてた。」
いたずらっぽく笑うエリカ。それが最大の気遣いであることに気づいてしまっただけに、イオナは曖昧に笑うことしか出来なかった。
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