責任者がいない営業日は、案の定、締まりがなかった。忙しい時間にもインカムからエリカの鼻唄が聞こえてきたり、スタッフ同士がしりとりをしていたり。
そうしていても注意する人がいないのだから真面目にやらないのは当たり前なのだが、そんな状態でピークを乗りきれたのは奇跡としか言いようがない。
スタッフの真面目さに対して、売り上げはすこぶる良く、お盆以来の高売り上げだ。もしかしたらスタッフがたのしく仕事をしているその雰囲気が、客の財布の紐を緩めたのかもしれない。
イオナにとってそんなことはどうでもいいのだが、問題はストッパーのいないエリカの暴走っぷりだった。
高売り上げを出したのだから、閉店後の店舗で飲み会をしようと言い出したのだ。
個人営業のところならともかく、ここは一応大型チェーンだ。責任者がいない状態で、勝手をやらかすのは後で大問題になりかねない。
ちょっと考えればマズいことは理解できるはずなのに、他のスタッフも盛り上がっている。
イオナからすれば「めんどくさいことになりかねない状況を楽しめる。」ことが不思議で仕方なかった。
嬉々として支度を始めた友人に「本当に大丈夫なのか」と問う。彼女は「もちろん」といい、笑顔で続ける。
「祝勝会なんだから。」
「めんどくさいことになんない?」
「あんた知らないの?バイトリーダーしかいない日は昔からやってんのよ。この店舗わね。」
どうやら嘘ではないらしい。彼女は得意気に言い切った。閉店時間までシフトを入れることがあまりないだけに、イオナには知り得ぬ世界だが、彼女が言い切るのなら間違いないのだろう。
ノリノリのスタッフたちにより、あっという間に打ち上げの支度は整った。食料品については見抜かれる心配があるので、近所のコンビニで買ってきたものが皿に開けられ並べられている。
全員がジョッキを手にしたところで乾杯の音頭がかかった。各々が高く掲げたジョッキ。その中でも一際高いのがエリカの持つビールで、一番低いのがイオナの持つ透明の水割り焼酎だった。
それぞれ会話を楽しんでいるのだが、寝不足で頭の重いイオナは輪に入りきれない。名前と顔の一致しないスタッフまでいたため、話しかけてくれた人の話にうんうんと相づちを打つ。その中で、相手の名前を拾う努力をした。
それでもどうにもならない場合には、ちょっと…と席を立つ。ほどよく酔いが回っているのに眠くはならない。
頭の中にはゾロがいて、声が響いて、どうしようもないくらい意識を揺すられ、目が覚めてしまうのだ。
壁沿いに置かれた長いソファの端に腰を下ろしたイオナに、いい具合に酔いたんぼのエリカがいやに絡み始める。
「もう、忘れちゃいなさいよ。かっこいい男紹介するわよ。それとも上手い男の方がいい?」
「忘れるってほど意識してもないって。」
「うそ、今も考えてますって顔してるわよ。」
「まぁ、ヤりそびれた感はあるからね。」
「へぇ。やっぱヤりたかったんだ。」
「そりゃ、いっぺんくらいは。」
嘘だ。別にヤりたかったわけじゃない。触れたかったんだ。彼の優しさに。
ただ、あの優しさに惹かれていただけだ。
虚しくて仕方なかった。
自分の時間を捧げてまで彼の恋を見守ったのに、彼が大切に思うのは恋人だけ。たくさんの仕事を覚えて料理の腕をあげても、彼がみているのはわがままでどうしようもない女の子。
耐えられない…。
この向かう先のない感情はいったいどこにぶつけたらいいのか。
イオナは一気にジョッキを空にする。焼酎水割りがたんまりはいったジョッキを、3杯目。さすがに寝不足の身体にはキツかった。それでも飲むのをやめられない。
瓶から焼酎を、サーバーから水を注ぎ、分量もなにも気にしていない、新たな水割りを作る。
憂鬱から抜け出せないイオナとは対照的に、エリカは機嫌よく飲み続けていた。その態度から、新しい男ができたのは明白だ。きっと気を使って言わないだけで、本当は話したくてウズウズしているのが伝わってくる。
イオナはポケットからスマホを取り出す。酔いのせいで目は回るし、指の先まで熱かった。頭は鈍いけれど、日常動作には問題ない程度。
画面に目を向けるとそこには【不在着信1件あり】と表示されていた。
心拍数が早くなる。声が聞きたい。出来ることならこの不満を全部ぶつけて、責任を取れと訴えたい。
でも、だめだ。そんなの絶対だめだ。
酔っているせいか、異常なほどに感情が昂ってしまう。それでも自制心を忘れるほどではなく、イオナは気がどうかしてしまう前にスマホの電源を落とした。
またジョッキの酒を口に運ぶ。喉に熱く感じるのは水割りでありながら酒の割合が高かったからだろう。
喉を這う違和感に顔をしかめるイオナをみて、正面に座っているスタッフが豪快に笑う。
「イオナちゃんって案外よく飲むんだね。 」
彼は大学の先輩でありながら、同じ学部の友達のお兄さんでもある。
バイト先ではもちろん、大学でも男は漁らない主義で良かったと彼の存在を知ってから本気で思った。
友達のお兄ちゃんだと知らず寝てしまったり、共通の知り合いがいるのにヤリ捨てたりしてしまえば、せっかく守ってきた信用を失いかねない。
友人付き合いもめんどくさいが、なによりも大変なのは味方がいないこと。そう思うからこそ、無理してでも友達と呼べるであろう人物はある程度作ってある。
イオナは手にしていたジョッキを口に運び、残っていた酒もすべて喉に流しこむ。そして、空のジョッキをかかげてにんまり笑顔を作った。
「やる気だせばこんなもんです。」
珍しく乗ってきたと思ったのか、先輩は空元気なイオナにビールの入ったピッチャーを差し出す。
「酔わせてなにする気ですか?」
「いいことしちゃう?」
「後悔先にたたず、ですよ?」
「なに?イオナちゃんそんなやばいの?」
なんとなく噛み合っていないような会話も酔っぱらいにすれば出来ているほうだ。二人のテンポのいい会話を聞いていた他のスタッフが会話に混じる。
「イオナちゃんって意外とよく喋るんだね。」
「そういえば、フロアきてからもゾロと話してるとこしかみたことなかった。」
酔っぱらいは大袈裟だ。他のスタッフとも適度に話していたし、業務連絡は完璧だった。プライベートな会話はたしかにしていないが、それでも周りを避けていた訳ではない。
イオナは曖昧な表情であちこちから放たれる言葉を聞き流す。
「ゾロはいいよなぁ。バイト先でもプラレイベートでもかわいこちゃんと一緒なんて。」
「今ごろニャンニャンしてんだろーな。あの彼女、めっちゃ可愛かったし…。くそ、アイツほんとなんなんだよ!」
何気ない会話なのに胸が痛い。別に傷をつけられたわけではないのに、勝手に塩が染みてくる 。
「いいよねぇ。遠距離なのに、無理して逢いに来てくれる彼氏っ。」
「かっこいいし、浮気しないし、あんな彼氏欲しいな。」
「羨ましくて鼻血でる。」
その無理のために、私は…
夢見心地に言葉を紡ぐフロントの女子に向かって、イオナは無言で視線を送る。彼女たちはキャッキャと盛り上がるが、イオナに表情はない。
きっとひどい顔をしたのだろう。
「大丈夫?」と声をかけてきたのはやいやいくんだ。顔を覗きこむその表情は、本当に心配しているようだった。
「余裕です。」
「うっそだぁ。」
「何を根拠に…」
「だって、目が死んでるよ。」
彼は冗談っぽく言う。その笑顔に悪気の無さが見えるが、今のイオナには関係ない。
「いっそ魂ごと死ねたら楽なのに。」
彼女がボソッと言葉を重ねると、途端にやいやいくんはひきつった顔をした。
誰だって死ねたら…なんて言われたらそんな顔をするだろう。
「冗談だって。本気にすんなよぅ。」
彼の鼻を人差し指でぐいぐいと押しながら、呂律の回らない舌でイオナは言う。やいやいくんはホッとした顔をしながらも、頬をわずかに赤くした。
単純で羨ましい。
こんな気持ちのままあと一日すごさないといけないと思うと、心底キツかった。イオナは彼の瞳をじっと見つめる。
「私と寝ちゃう?」
困ったように目を泳がせる彼をみていると、言わずにはいられなかった。彼は「え…?」と目を丸くする。ここで食いついてこないところが元カレとは違うところかもしれない。
「冗談に決まってんじゃん。」
「だ、だよね。」
彼はぎこちなく笑って、少しだけ安心したような顔をした。好きだなんだと言っていたくせに、何故迫られると引いてしまうのか。
このままこいつに抱かれてしまおうかと、まるで当て付けみたいにイオナは考えていた。
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