「イオナちゃん、だよね?」
突然の懐かしい声に、イオナは目を丸くする。あれから5年以上時間は経過しているのに、その顔は鮮明に記憶されていた。
「どうして…」
「友達といるところごめんね。懐かしい顔だったからつい。俺の地元こっちだったんだよ。大学出て、戻ってきて…、イオナちゃんは進学で?」
「はい…。」
「全然変わってないね。すぐにイオナちゃんだってわかったよ。」
男は人懐こい笑顔をイオナに向ける。その優しげな表情からは、決して下心やイヤらしさは感じられない。なにに近いかと言われると、久しぶりに逢う親戚の見せるそれによく似ている。
悪意は全くないが、こちらが思っている以上に馴れ馴れしく、親しげな印象。
多少の図々しさはあるものの、まるで悪いところは見えてこない。それなのに、何故かイオナの顔色が目に見えて悪くなった。
最初こそ好奇心に瞳を輝かせていたエリカも、これ以上はよくないと口を挟む。
「今日は思ったより冷えるんで、ちょっと屋根のあるところに行こうと思うんですけど。」
「屋根のあるところ?」
「えぇ。運命の再開の邪魔しちゃうみたいであれですけど、そろそろいいですかね。」
少しだけ刺のある言い方でエリカは言う。しかし、彼は気を悪くした様子はなく、それどころか、朗らかな笑みを崩さない。
「いやいや、運命の再開なんてそんな。二人の時間を邪魔してごめんね。」
穏やかな謙遜。まったく裏の見えない男の対応と、なイオナのぎこちない態度とのギャップにエリカは困惑した。
人を見る目はあるとエリカは自負している。特に男においては、絶対の自信が。彼に対して今感じている、覚えている感覚は間違っていないはず。多少馴れ馴れしいことはあるが、この男は悪い男ではないはずだ。
ではイオナのこの反応はなんなのだろうか。
エリカは無意識のうちに警戒心を強くする。イオナ同様に表情が強張った彼女をみて、男は困ったように笑いながらその場を後にした。
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─過去
「別れた方がいいよ。」
突然そう切り出され、イオナは泣きそうな顔をする。まだ行為の余韻が残る違和感だらけの身体。快楽を覚えられるほど発達していない身体をいいようにされたばかりの彼女は、シーツを強く抱きしめる。
「こないだも言ったよね。アイツには本命の彼女がいるんだって。」
「でも…」
「ほんとに君のことが好きなら、こんなことやらせないと思うよ。それとも、イオナちゃんはこういうことやらされて嬉しいの?」
首をぶんぶんと左右に振るイオナ。それをみて男は優しく微笑み、彼女の頭を丁寧に撫でる。年の離れた妹を労る兄のような優しい動作だ。けれど、イオナは怯えた目をするばかり。
「イオナちゃん、アイツとは絶対に別れた方がいいよ。そうしないと、取り返しのつかないことになる。嫌な思いはしたくないだろう。」
「……。」
「知らないおじさんと"こういうこと"をやることになっても、イオナちゃんは平気なの?」
「それは、やだ…。」
「じゃあ、もう別れた方がいい。アイツは平気でそういうことの出来るヤツなんだ。」
優しい口調で男はイオナを諭すけれど、彼女は頷けない。そんな煮え切らない態度を見ても、彼が怒ることはない。ただ優しく頭を撫で続けるだけだった。
…………………………………………………………………
─現在。
バイト先に向かうにはまだ時間がある。男が立ち去ってから、二人はカフェを後にし、繁華街をぶらついていた。
当然ながら彼に関することは一切話してはいない。エリカからみて、イオナが何か話してくれるようには思えなかった。
小さな雑貨屋のショウウィンドウを眺めながら、イオナがポツリと呟く。
「依存しちゃうんだと思う。」
「え?」
「あの人がいなかったら、私、終わってた。」
「そう。」
なんとなく吐き出したいだけなのだろう。深く掘り下げてはいけない内容だと判断し、エリカは簡単な相づちを打つ。
「でも素直に感謝出来なかった。それどころか、ちょっとだけ恨んでた。」
「まあ、そんなこともあるんじゃない?」
「よくないってわかってても直せない…」
イオナが強い拘りをみせないのも、自分を主張しないのも、きっとその過去が大きく関わっているのだろう。このやりとりで全てを悟るのは難しいが、それでもなんとなくそれだけは理解できる。
あの男と話してみる価値はあるな。
友達の過去を詮索するのはよくないことだ。それはわかっているが、知らないよりは知っていた方がいいこともある。もしそれがいけない内容だったなら
ら、口外しなければいいだけの話だ。
エリカはイオナを気遣う素振りも見せず、軽い口調で言い放つ。
「よくないとこを理解してるだけまだマシよ。私なんて修羅場抱えてばっかりだけど、なにが悪いのか全くわかんない。なんで誰も教えてくれないのかしら。」と。
「人の忠告なんて聞かないくせに。」
イオナは曖昧に微笑み、悪戯っぽく言う。
「聞いてあげないこともないわよ?ただ、それに従うかどうかは謎。っていうか、誰かの言いなりになんてなりたくないし。」
「馬耳東風ってヤツだね。」
「なに?私の脳みそが馬レベルって言いたい訳?」
「問題はそこなんだ…」
少しだけ元気を取り戻したイオナを横目に、エリカはいつもと変わらないあっけらかんとした態度を続ける。
その態度はまるで、"自分があたふたしていてはいけない"と心得ているようだった。
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