明け方。
目を覚ましたイオナは、小さく身動ぎする。ゾロが泊まった日はいつだって背後からガッチリとホールドされているため、身動ぎするのも一苦労なのだが、今日はすんなりと寝返りまで打てた。
─あれ?
急激に胸の奥がざわめく。肺がキュッと絞られる。
ただそこに居ないというだけで沸き上がる不安。寝ぼけている頭より、心は正確に状況を判断していた。
「ゾロ…?」
イオナは身体を起こす。すでに隣の部分に体温が残っていないことで、ずいぶんと前に彼がそこからいなくなっていたことがわかる。
カーテンの隙間から射し込む日の光に霞む目を擦り、部屋を見渡たそうとしたイオナの身体は、突然正面から働いた力により、再びベッドに沈んだ。
そして、眼前に現れる探していた相手の顔。
彼は予想が的中したときによくする、呆れたような顔をして笑っている。胸のざわめきも、肺への圧迫もスゥーッと引いていった。代わりに沸き上がるのは安堵感。
「どうした?」
「どこいってたの?」
「どこって…、ずっと部屋にいたっての。」
「うん。知ってる。」
思わず口元が緩む。ゾロもまた釣られたように「なんだそれ。」と笑った。胸中で膨らむ、なんとも言えない居心地の良さ。ずっとこうしていたくなる。思わず腕を首に絡めてしまうが、彼は微笑むだけ。
「早起きだね。」
「…まぁな。」
「寝てないとか?」
「それはねぇよ。」
少しだけぎこちない返事に、イオナは首を傾げる。なにかを隠している、誤魔化しているような表情だ。
「どうしたの?」
「いや、別に。」
噛み合っていた視線が一度離れる。ゾロの目線が下がった。反射的に顔の筋肉が強張り、とくんと心臓が跳ねる。視線を拒むように唇を固くすむんでしまう。
嫌じゃない。求められることは嬉しいはずなのに、こちらから催促することは出来ない。受け身になってしまう。
緊張が伝わってしまったのかもしれない。ゾロは曖昧に微笑むと、なにも言わず身体を倒した。全身で感じる重みと体温が、身体に馴染んでくる。
「重いよ。」
「だろーな。」
耳元で感じる声の響きが妙に優しく、どこか甘い。ゾロは身体を横に倒す。腰を引き寄せられて、温もりに包み込まれる。イオナは額を分厚い胸板に押し付け、再び瞼を閉じた。別に眠たい訳ではないけれど、こうしていると安心できる。もう一度眠れてしまいそうなほどに。
「今日、講義あるんだろ?」
「そうだね…」
「二度寝すんなよ。」
「うん…」
あと一歩だった。あと一歩で…。
後悔だ。残念だ。
ゾロはどう思っているだろう。
時々不安になる。
でも自分からそれを確認する勇気はない。
……………………………………………………………………
キス出来たのかな…
講義の最中、そればかりを考えていた。
あの時、間違いなく彼の意識は唇に向いていた。そういう雰囲気だった。それなのに…
イオナは頭を抱える。部屋に泊まってもらうようになって1ヶ月が経つのに、ハグまでなんてどうかしているんじゃないか。
大切にされていると思えばそれまでだが、そういった趣旨の言葉を口にした訳でも、囁かれた訳でもない。グレーゾーンから踏み出さずに、曖昧な関係を持続させているだけだ。
あの瞬間、ちょうだいするみたいに顎をクイッとあげればよかったのだろうか。いや、そんなこと出来るわけがない。
「イオナ、大丈夫?」
「うん。」
「なに?なんの悩みなの?」
一緒に講義を受けていた友人が、好奇心に瞳を輝かせる。彼女にはゾロの存在はおろか、恋愛の相談すらもしたことがない。第一、付き合ってもいない男を部屋に泊めているだなんて話を、普通の友人に出来るわけがない。
「ちょっとした人間関係の悩みかな。」
「そうなんだ。話しなよ。なんでも相談のるよ?」
「いいよ。たいしたことじゃないから。」
どうしても聞き出したいのか、食い下がる友人を適当にあしらいながら、イオナはゾロの困ったような、呆れたような、なんとも言えない笑顔を頭に思い浮かべていた。
………………………………………………………………
この日もバイトだった。もちろんゾロも一緒だ。
どんな顔をすればいいのだろう。いや、普段通りでいいはずだ。普段通りってどんな…
考えれば考えるほどに堂々巡りで、答えは闇の深いところから出てきてくれそうにない。考え事のし過ぎてパンクしてしまいそうになっている、重たい頭を抱えたイオナが休憩室に入ると、待っていましたと言わんばかりの声量で声をかけられる。
「おはよう、イオナちゃん。」
「あぁ。やいやいくん…、おはよう。」
「メールみてくれた?」
「え?なにそれ。」
「今朝方メールしたんだけど。」
イオナはやいやいくんの言葉の途中で、すでにスマホを手に取っていた。メールボックスを開くが、メルマガ以外の新着メールは一通もない。
「送信先まちがえたんじゃない?着てないよ?」
「間違えるわけないよ!だって─」
そこまで言って、彼は続く言葉を飲み込んだ。静止するやいやいくんの視線を辿ると、そこには不機嫌な顔をしたゾロが立っていた。
「ゾロ…。おはよ。」
「悪ぃ。」
「なにが…」
「そのメール、俺が消した。」
「え?」
「別にメールする必要なんかねぇだろ。」
あからさまなゾロの不機嫌に、イオナは戸惑う。朝の態度は普通だった。確かに、はぐらかすような顔はされたが、それにしても今の彼は高圧的すぎる。
そんなゾロに食って掛かるやいやいくん。
「そんなのゾロには関係ねぇじゃん?」
「朝からうるせぇんだよ。」
「なにが…」
「あんな早朝にメールしてくんな。安眠妨害だろ。」
「………また泊まってたのよ。」
淡々とした口調の挑発。その言葉の意味を理解したやいやいくんは、乱暴な口調で言うが、ゾロはもう聞いてはいなかった。すでに二人に背を向けており、ロッカーの奥へと消える。
残されたやいやいくんは苛立たしげに頭を掻く。そして、若干八つ当たりぎみにイオナに訊ねた。
「ゾロと付き合ってるの?」と。
イオナは首を横に振る。彼が「じゃあなんで」と続けるが、「わからない」と答えることしか出来ない。
一緒に居たいから。独占したいから。好きだから。
違う。聞かれているのはそういうことじゃない。
"付き合ってもない相手をどうして部屋に泊めてるの?"と聞かれているのだ。"どうしてそんな真似ができるの?"と蔑まれているのだ。
泣きたくなった。
人に言えないことはやるもんじゃない。それはわかっていたはずだ。もうすでに一度"後悔"を経験しているはずだ。それなのに─
イオナは踵を返す。待ってと呼び止められたが、知るもんか。ずんずんとロッカーへと向う。
そういう関係だと思われても仕方ない。
身体の関係はないと否定したところで…だ。
「泣くなよ。」
ロッカー側に入った途端に、声をかけられる。低く掠れた、傍にいないと聞こえないくらい小さな声を。
「泣いてなんか…」
「強がんなくていい。考えてることはだいたいわかる。」
「なら!」
訴えるように声を上げ、顔をあげるイオナ。彼女を見下ろすゾロは、少しだけ険しい顔をしていた。それていて、悲しそうな顔をしていた。
その顔が見えたのは一瞬で、身体が前に向かって倒れる。抱きよせられたのだと気がついた時には、額が胸板に押し付けられていた。
「いいから待ってろ。」
「待つって…」
「待っててくれ。」
掠れた声。意思と力強さを感じる優しい声色に、何を?と聞いてはいけない気がした。イオナはコクりと頷く。
「約束だぞ?」
「約束する…。」
なんだか幼稚なやりとりにも思えるけれど、それでも確かな繋がりを感じられる言葉のやりとり。肺いっぱいに広がるゾロの匂いと、胸から込み上げる熱が混ざり合う。
誰に何を言われても大丈夫。
そんな気がした。
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