擬似的な三角関係
シフトが被っていた。
たったそれだけのことにしては、イオナがたどたどし過ぎる。なにが原因なのだろうかとゾロは首を傾げるが、薮蛇になるのが嫌で問いかけることができない。
それでも一緒にいさえすればなんとかなる。
距離感さえ間違わなければ…
そこまで考えたところで、ふと、過去の失敗が頭を過る。あぁ、ダメだ。思い出すな。と胸中で繰り返すが、それは否応なしに記憶の中で写し出される。
かつて友人だったその存在も、募りに募った想いも、男としてのプライドも、あの行動で何もかもが木っ端微塵に弾けとんだ。
悔しくて、苦しくて、悲しい。
それまでの人生で挫折なんてなかった。なんだって思う通りに、望むがままだった。だからこそ、行き場のない感情の吐き出し方を知らない。それがどれだけキツいことなのかをはじめて知った。
あんな想いだけはしたくない。
ある程度心の整理はついているものの、イオナとの関係を考えているとどうしても『その時』のことを思い出してしまう。当時の自分とイオナが同じ年齢であるせいかもしれないし、ただ純粋に臆病になっているだけかもしれないが。
どちらにしても、忘れたかったことが記憶の中を巡り、脳髄でガンガンと主張を繰り返す現象は収まりそうになかった。
本人に確認を取りながらではあったものの、なんとかゾロを主導にイオナの部屋へと帰ってこれた。
彼女の部屋は相変わらず片付いている。ベッド脇の棚に並んだ食玩も、いつもと変わらず整列しており、当然ながら埃も積もっていない。
食器や家具を模したものや、食品サンプルを縮小化したようなもの、デザインはさまざまで見ていて飽きない。ひとつでも倒してしまえば、全てがドミノ倒しになりそうで、顔を近づける段階で無意識に息を潜めてしまう。
一通りの食玩を眺めて終わったゾロは、床に胡座をかいた。そのタイミングでイオナが温かいお茶の注がれた湯飲みを持って戻ってきた。
「寝る前はカフェイン摂取しない方がいいから。」
「あぁー。考えたことなかったわ。」
「そうなの?」
「ん?」
イオナが不思議そうな顔をする意味がわからない。ゾロは小さく首を傾げた上で、眉間にシワを寄せる。一見機嫌を損ねたようにもみえるが、別に不機嫌になったわけではない。彼が眉間に力を込めるのは、ある種の癖のようなもので、親しい人間はほとんどがそれを理解していた。
「健康に気を使ってそうだから。」
「俺がか?」
「うん。」
なにを根拠にそう思っているのだろう。ゾロはイオナの表情をうかがい見るが、彼女はまったく腑に落ちないようで「あれ?」と言いたげな顔をしている。
誰かにそう教えられたか、何かをみてそう思ったか。どちらにしろ、別に健康を気にかけた覚えはない。煙草こそ吸わないが、酒は飲むし、夜更かしはするし、コンビニ食品は食べるし、睡眠不足は常だ。趣味の範囲で運動はしているが、それがどうというのだろうか。
自分が一般男性より筋肉質であることを失念しているのか、はたまたそれは個性とでも思っているのか、彼は考える。なにを根拠に?と。ただ深く考えたところで、本人に聞かなくては答えなどでない。
だからといって、いちいちなんにでも「なんで?」「どうして?」と訊ねるのは好きではない。結果的には話を流すことにした。
「だったら深夜にバイトなんてしねぇだろ。」
「たしかに。」
イオナは納得したように小さく頷いてみせながら、湯飲みを口に運ぶ。ゾロもその動作を真似るが、唇に触れた茶の温度が高くて、ビクッとなった。
「お風呂、そろそろ湯船にお湯張ろうか。」
なぜイオナはすました顔で飲めるのか。不自然なくらいに表情を変えず、何口か茶を飲んだ彼女は唐突に切り出した。
「どっちでも良いけど。」
「寒くないの?」
「別に。考えたことねぇけど。」
「え?」「え?」
二人は顔を見合わせる。一拍の間の後、イオナは不思議そうに言う。
「シャワーだけだと温まらないよね?」と。
「いや、別に…」
「そうなんだ。」
微妙に価値観がズレていて、違和感だらけ。
イオナは驚いたような、感心したような顔をする。今こうやって会話した相手がエリカやマリだったら、「絶対に浸かった方がいい!」と主張するだろう。下手すれば口論を吹っ掛けられるだろう。
最近は男もそうなってきたが、女はより共感を大事にする生き物のように思える。異端は弾くか、共感するまで説得する。そうしないと自分のアイデンティティーを否定されてしまう、とでも言うように。
そんな過剰な部分ばかりを目にしているからこそ、ゾロはイオナの反応を"懐かしく"思った。
「独り暮しが長いからな。浴槽掃除すんのもめんどくせぇし、基本はシャワーなんだよ。」
「ふーん。」
彼女は特に何を言うわけでもなく、まるでこちらの意見をスポンジのように吸収したまま腰をあげる。
「お風呂入ってくる。」
「おう。」
イオナと過ごす時間は平凡だ。それなのに不思議な緊張感がある。彼女が部屋が出ていったタイミングで小さく深呼吸してしまった。
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彼女とお風呂に入ったりしなかったの?
思わずそう問いかけてしまいそうになった自分が嫌になる。イオナは浴室のドアに背中をあずけ、ふぅっと深い溜め息をついた。
自分になにもしてこないのは、元カノに未練があるからじゃないか。
心の底でそんなことを考えてしまうのは、心が黒いからなのかもれしない。
けれど自分に向けられている優しさや、温もりがあまりに大きすぎて、その全てを受け入れられる自信がなかった。
それなのに欲しがってしまう。
独り占めしたいと思ってしまう。
だからこそ、イオナは与えられた全ての責任を別な存在に転換する。
─ゾロは元カノに未練がある。
─私は代理だ。
─元カノの代わりに受け取っているだけ。
─だから、だから気にする必要なんて…
そう考えることで、折り合いをつけるのでやっとだった。例えどんなに辻褄が合わなくても、そう思っていた方が気持ちが楽だった。
イオナは脱いだばかりの衣服を洗濯機に放り込むと、シャワーの蛇口を一気に捻る。シャワーからは冷たい湯が溢れ、肌に弾かれるが、次第に温かくなってきた。
ゾロが自分以外の誰かを大切にしているところなんてみたくない。知りたくない。でも、ゾロは…
自分はゾロのことを好きでたまらない。その気持ちは今さら誤魔化しようがない。どんなに切り捨てようとしても、心に染み付いてしまった感情を取り除く術など存在していないのだから。
けれど、だからといって、相手も自分を好いてくれるとは限らない。相手には選ぶ権利がある。
もう彼には辛い想いはしてほしくない。
振り回されるような恋はやめてほしい。
でも、それとは逆に「3年間になら負けてもかまわない。」と「仕方がない。」と思っている自分もいる 。
それがひどく理不尽で、辻褄の合わないことだとしても、それが一番、傷つかないフラれ方である以上、イオナはそう考えずにはいられなかった。
そう。そうやって考えているだけのうちは、それでいいはずだった。
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