あやふや自分の気持ちを目視できるようになれば、こんな不安定な精神状態に陥ることはなかったんじゃないか。
甲板で仰向けに寝転がったゾロは、薄暗くなった空に向かって深い溜め息をつく。
もう散々だと思うほどに悩んだし、考えた。感情に正しさなんてものがないことは充分に理解しているが、それでも『答えが出ていない』この状況を気持ち悪く感じているからだろう。
先ほどまで騒がしく駆け回っていたルフィや、何かを制作していたウソップはすでに船の中で食事を取っている。つまり今は夕飯時であり、他のクルーは皆、食事を取っている。
甲板に一人きりであることが、ゾロをさらに思考の渦の中に閉じ込めてしまっていた。
過去と断言するには真新しい出来事。それでも『それ』が過去である以上、変えることの出来ない現実。
─きっかけは些細なことだった。
─すでに心を掻き乱されている。
─当然ながら無かったことには出来ない。
ゾロ自身が、現状を単純に受け入れることが出来たのなら、心に判断を委ねられたのなら、ここまで悩む必要は無かったのかもしれない。
本能のままに行動し、そこに理屈を求めるから辻褄が合わなくなる。よほど煮えきった"思い"でもない限り、衝動的な感情にロジックなど存在するはずがないのだから。
しかし、その原理に気がつけないゾロは、自分の愚かさに、不甲斐なさにさらに深いため息を漏らす。
「ただのバカ野郎じゃねェか。」
自虐的な呟きは、波の音に紛れた。
………………………………………………
一時間前。
「こないだ、イオナになんかしたか?つって、俺に聞いたよな?」
「あぁ。」
夕飯の支度をしていたサンジは、あからさまに怪訝な顔をする。ゾロの口から"無関心に近かった"イオナの名前が出た。その違和感から、なにかを感じ取ったのだろう。
サンジは表情をそのままに料理の手を休め、煙草に火をつけた。
「それがどうかしたか?」
「抱いた。」
「は?」
「イオナは"俺の"だ。」
淡々と、挑発的に告げるゾロに対して、サンジは信じられないといった表情を一瞬みせたものの、それ以上は感情を露見させなかった。
それでもそこに憤りがあるのはわかる。
「今さら欲しがるなよ。」
返事が返ってこないことはわかっている。そんな口ぶりでそう言い放ったゾロは、踵を返す。背中にジリジリと焦げ付くような視線を感じながら。
………………………………:……………………………
現在。
どうしてあんなことを言ってしまったのか。
考えて理解できるほどそれは単純ではなく、まさしく『衝動的』と呼べるものだった。
イオナに好意を寄せられながら、それを邪険に扱った男。
甘やかしに近い優しさを振り撒いたクセに、そこで芽を出した感情には見向きもしない。育てるなら、勝手に育てればいいと言い、水すらも与えない。
そんな男に惚れるイオナも悪いのだろうが、そんな男に夢中になるイオナが愚かなのだろうが、それでもゾロとしては『それ』が許せなかった。
想われていながら、その感情を無下に扱った。
そのクセに、平然と暮らしている。
そんなサンジが腹立たしかった。
もしかしたら、頭のどこかで「イオナと『あんなこと』になったのはコイツのせいだ。」とでも思ったのかもしれないが、そんなくだらない責任転嫁を自分がするとは思えない。
いったい何に対して腹を立てているのか。
理性的に考える余裕もなく、ゾロはサンジを挑発し、宣戦布告とも思われても仕方のない発言をぶつけてしまった。
自分らしくない衝動的な行動に苦虫を噛む。
イオナのこととなるとどうしてこうなのか。
わからない。わからないからこそ考える。
答えなど見つかるはずもない堂々巡りに苛立ちを覚えながらも、ゾロは深く瞼を閉じた。
…………………………………………………………
それから30分後
甲板に顔を出したイオナは、すっかり日の落ちた辺りを見渡す。薄い月明かりしかない海の上。火でも灯せばいいのだろうが、彼女はそうしない。
両手で持った盆の上には、片手で持つには大きすぎるおにぎりと小さなおちょこが二つ。どこかに躓いて転んでしまわないよう、慎重な足取りで芝生を踏みつける。頼りは波の音に紛れる寝息。
イオナは眠りこけるゾロまで残り1mというところで足を止めた。そして不思議そうに首を傾げる。
普段のゾロならば、この距離まで歩み寄ったところで目を覚まし、「なにか用か?」とぶっきらぼうに訊ねてくる。本当に寝ていたのかと問い詰めたくなるほど、正確なタイミングで。
最初こそ警戒されているのかと疑ったが、警戒している対象に発情するほど、ゾロは野獣ではないような気がした。なにより、この船のクルーの中ではそこそこ理性的な方なのだから。
では何故なのか。
一度は真剣に考えようとしたことがある。けれど、当然のことながらその理由がわかるはずもなく、すぐに考えるのをやめてしまった。
寝こけているゾロは、すぐ傍まできても動かない。その寝姿は多少無防備のようにも見えるが、きっと誰かに刃物を向けられたなら、すぐに対応できるだけの最低限の警戒はしているように思える。
イオナはその気難しげな寝顔を覗きこむ。
外の薄暗さに目が慣れたおかけが、その表情はハッキリと見えた。
「ゾロ…?」
躊躇い交じりに呼び掛ける。当然ながら反応はない。
「あの、ごはん…」
刺客と間違われても困るので、聞こえていないとわかっていながらも、あえて声をかけながらその場に腰をおろす。
手に持っていたお盆も芝生の上におき、背中に背負っていた酒の一升瓶もその隣に置いた。
「ゾロ…?」
まったく反応がないことに違和感覚えつつ、身を乗り出してもう一度その顔を覗きこむ。
神経質そうに見えるこめかみの青筋。力強く寄せられた眉間に、こちらのアクションに全くもって無関心な不規則な寝息。
男らしいと言われればその通りかもしれない。
けれど、それを特別どうと思うこともない。
イオナは一つ溜め息をついた後、どうしたものかと小首を傾げる。
腹が減っていないと差し入れを拒まれる可能性は頭の隅にあったが、目を覚まさないことについては考えていなかった。
呼吸に合わせて上下する腹筋。せっかく眠っているのに、どうしてそんなに険しい顔をしているのだろうか。
身体を揺すって起こそうかと思い手を伸ばすが、その深い寝息を前に躊躇ってしまう。触れていいのか。それとも─
触れられるのと、触れるのは大きく違う。
関係は相変わらず他人行儀で、互いの内側に一歩踏み込むような真似はどちらからもしない。神経質になるほどの相手ではないが故に、踏み込まないことに違和感を覚えることはなかった。
イオナは引っ込めていた手で、ゾロの肩にソッと触れてみる。途端に、ゾロはパッと目を開いた。その反応の速さに、イオナはハッと息を飲む。
「………っ!」
「……なんだよ。」
「いや、あの…。」
言葉を詰まらせたイオナが持ってきた盆へと視線を向けると、ゾロは彼女の視線を追いかけ──「あぁ、そうか。」と小さく呟く。
「食べれる?」
「あぁ。これ…」
「私じゃない。サンジさんが…」
「へぇ。」
ゾロは身体を起こし、目を背けたままのイオナの顔を覗きこむ。
「どうかしたか?」
「別に。ゾロには関係ないよ。」
「……、そうか。」
なにか言いたげな表情のまま、おにぎりに手を伸ばすゾロ。彼の手の甲の骨の形を、指の節を、手首に浮いた血管や筋を眺め、イオナはやはり"なにか違う"という違和感を覚える。サンジの手とは、理想の手とはなにかが違うと。
けれど、それと同時に、不思議な安堵感を覚えたのもまた確かな感情だった。
「なあ、イオナ。お前、ウソップのことなんて呼んでる?」
「えっと…。ウソップくん。かな。」
「じゃあ、ルフィは?」
「ルフィくん。だけど?」
イオナはルフィやウソップよりも年下だ。二人にも最初は「さん」を付けていたのだが、本人たちの希望で「くん」となった。イオナはどうしてそんなことを訊ねるのだろうかと小首を傾げたのだが。
「なんで、俺には敬称つけねェんだよ。」
「え?」
「お前、最初から俺のこと呼び捨てだったろ。」
おにぎりをもぐもぐしながら、あきれた顔をするゾロをみて気がついた。自分が無意識のうちに彼を呼び捨てにしてしまっていた事実に。
「あぁ、ほんとだ…。」
「ほんとだ。じゃねぇだろ。」
「あ、うん。ごめん。」
自覚なくやっていたことなのだから、なんでと聞かれてもわからない。だいたい、ゾロの名前を口にしたのは、あの一件があって以降だ。それまでは「あの…」とか「すみません…」とかでやり過ごしていた。
ついでを言えば、ウソップやルフィ、その他のクルーに対しても、名前を呼ばなくてはいけないほど積極的に関わってはいない。
何度も名前を呼んだのはサンジくらいのものだろう。
イオナはぼんやりとそんなことを考える。
そのわずか1分程度の隙に、ゾロはあの大きなおにぎりをペロリとたいらげてしまっていた。お腹が空いていたのかもしれない。
「まだお腹空いてる?」
「話を逸らすなよ。」
「あ、いや、そんなつもりは…」
「別に。」
「ん?」
「もう飯はいい。」
からかっていたのだろうか。ゾロは口角をわずかにもちあげ、意地の悪い笑みを浮かべている。イオナはどんな顔をしていいのかわからず、顔を伏せた。
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