ゾロ短編 | ナノ


オレンジ

食器を棚に戻すイオナの手から、スルリと皿が滑り落ちる。めいいっぱい背伸びしていた彼女は、視線でそれを追い手を伸ばすが間に合うはずもなく─。

足元で響く陶器が床で砕ける破損音。

床に散らばる破片となった皿を目にした途端、謝罪の言葉が口から溢れた。

イオナが咄嗟的に深く頭を下げた先には、たくさんの食材を抱えたサンジ。

その判断の早さからして、これが一度や二度の経験でないことを物語っている。

当然、彼もこのやり取りには馴れたもの。

「怪我はない?」

特に焦る様子もなく食材やらなんやらを調理台に乗せ、コクコクと頷くイオナに微笑みかける。

自分のどんくささに泣きそうになりながら、立て掛けられていた箒を手に取った彼女だったが─。

イオナちゃんがしなくてもいいんだよ。と笑顔でソレを奪われてしまう。

それがサンジからの気遣いであり、優しさであることは重々承知。

感謝してもしきれないくらいに甘やかされていることを理解した上で、その"優しさ"こそが胸に突き刺さる。

「ごめんなさい…。」

込み上げる涙をどうすることもできず、さりとて無言で立ち去る訳にもいかない。

喉の奥から無理矢理声を絞り出し、イオナは踵を返した。背後から名前を呼ぶ声が聞こえたけれど、立ち止まりはしない。

何度用事を増やして迷惑をかけても、いいんだよ。と笑ってくれる。その寛大な優しさに甘えたままの自分。

ミスをする度に"ドジッ子だ"なんて笑ってくれるけれど、そうして許してもらえることが申し訳なくて胸が詰まる。

─どんくさくて、引っ込み思案で、弱虫で、逃げてばかりで…

─こんな自分、大嫌い。

バタンとドアを閉めた時には、顔をくしゃくしゃにして泣いていて、頬を伝う涙を乱暴に袖口で拭った。

どこかへ行こうにも、泣いていることろなんてみられたら心配をかけてしまう。

廊下の片隅で涙をゴシゴシと拭き取り、大きく鼻を啜ったイオナの前に立ちはだかる一つの影。

顔をあげなくとも、それが誰のものかはハッキリとわかったが、それでも彼女は恐る恐る顔を上げた。

「何泣いてんだよ。」

「ゾロ…」

腰を屈めて目線を合わせたゾロの目にいつもの鋭さはない。心配そうに細められた双眸にみつめられ、イオナの目頭はさらに熱くなる。

「どうした?エロコックになんかされたか?」

冗談めかした問いかけに、ブンブンと首を左右に振って否定。涙が溢れないように奥歯を噛み締めるのに必死で、言葉を紡ぐ余裕なんてない。

迷子になった小さな子供のように、イオナは強がろうとする。

そんないじらしい姿が彼の目にどう映ったのか、ゾロは柔らかく微笑みながら、縮こまる彼女の肩をポンポンと叩く。

「そんな弱った顔すんなよ。心配になるだろーが。」

何気なく。そう。ゾロはきっとなにげなくその台詞を口にした。

それでもその台詞は、『心配』という言葉は、今のイオナの前で使うのは少し不味かった。

─また心配かけちゃった。
─私がダメなのに…。

普段ならば堪えられる涙も、一度緩んでいた涙腺では防ぐことはできない。優しさが胸に染み、申し訳ない気持ちがそこに流れ込む。

溜め込み切れなかった感情が雫となり頬を伝いはじめ─

「………グスンッ。……うぅ。」

「あぁー。泣くな?な?笑えよ。つーか、ほら。こっちこい。」

─"不味いことをした"と言わんばかりに狼狽してみせたゾロに腕を引かれ、イオナはそのまま甲板へと連れ出された。

そこで彼女の視界いっぱいに広がったもの。

それは水平線を染め上げる壮大なオレンジ。

「綺麗だろ?」

隣に立つゾロはまるでそれを自分で作ったかのように、得意気に笑う。イオナはコクコクと頷くことで同意し、半円になった夕陽の方へと顔を向けた。

気がつけば涙は止まっていて、涙で濡れた頬は乾いている。さっきまで腕を掴まれていたはずなのに、手すりに乗せた手が重なっていて…

落ち込んでいたはずなのに、それは淡くて熱っぽいほとばしる感情によって打ち消されてしまう。

ギュッと握られた手から、腕を伝い、その横顔へと視線を移す。

夕日に染まる整った顔立ちはいつもよりずっと凛々しく、息を呑んでしまう程。

「なぁ、イオナ。」

太い喉に浮かぶ喉仏が上下に揺れ、その薄い唇が自分の名前を口にした。

それだけの事象を理解するのに、こんなに時間を要するだなんて─

「…呼んでんだから返事くらいしろよ。」

「あ、ごめん…なさい。」

ゾロの視線がイオナに向くと同時に、彼女は反射的に頭をさげ謝罪した。

視線を伏せたままなのは、目を合わせると本当に"溶かされて"しまいそうだと思ったから。

それでもゾロは容赦ない。

「謝んなくていいから、顔あげろ。」

言葉とは裏腹に優しい口調。ぽんっと頭に乗せられた大きな手は、重ねていた手とは別の手で。

ゾロが向き合っているのは海ではなく、自分なのだと彼女は悟った。

跳ね上がった心拍数。呼吸の仕方を忘れるくらいのときめきに、胸が熱くなる。その熱に溶かされた感情がまた、緩んだ涙腺から溢れそうになる。

目頭が熱くて、胸が焦げそうで…

「イオナ?」

優しく名前を呼ばれ身体の芯が震え、瞼の縁にいっぱいの涙が溜まる。瞬きすれば溢れてしまいそうで、でも袖口で拭う訳にもいかない。

だから、彼女はそのまま顔をあげ、涙が溢れないように彼を真っ直ぐに見据えた。

そこにあったのは眩しすぎる笑顔。
目尻をくしゃっと下げ、ニカッと持ち上げられた口元から白い歯の浮かぶ、飾りっ気のないまるで少年のような優しい表情。

余りに輝いていて、目をそらせない。

「一人で泣くなよ。」

ゾロは照れ臭そうにおどけた調子で言う。

「涙はちゃんと拭いてやるから。」

ワシャワシャと髪を乱され、思わず目を瞑ってしまった。それに伴い、溜めていた涙がスゥーっと頬を伝う。

ぽかぽかと広がる安堵感。

ずっとずっと溜め込んでいた、コンプレックスも不安も焦りも。

すべてを包み込んで、ほぐしてくれる。

こんな風に笑いかけてもらえるなら、どんくさい自分だって好きになれるかもしれない。

そんな調子のいいことを考えている間にも、甘い言葉を冗談めかした口調で紡ぐゾロの表情は相変わらずで─

「だから、安心して笑ってろ。」

─きっと頬が少し赤く見えるのは、夕日に染まっているから。

それでもイオナは、その優しさが嬉しくて泣き顔をめいいっぱいの笑顔に作り変えた。





END.


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