否定すべき感情「不倫は良くないよ。」
そう投げ掛けた声はずいぶんと震えていた。けれど、その対象者は、その人たちは、罰の悪い顔をして視線を伏せるだけ。
私だって目を逸らしてしまいたいよと言いたくなる。
けれど、この状況がそれを許さない。今まさに、簡易宿泊施設から出てきた二人は全くの他人ではなかった。男性の方は同僚だ。同僚であり、同じ部署では唯一の同期入社。社内ではより親しみを感じている存在で─
「ねぇ、ゾロ。その人、結婚してるんだよ?」
イオナは女を一瞥した後に言う。心臓はこれまでにないほどバクバクしている。これだけ鼓動は速いのに、脳に酸素が通ってこない。今まさに脳貧血で倒れてしまいそうになりながら同僚を睨み付けた。
ゾロの隣に立つ女は、同じ会社に勤める他部署の先輩である。グラマーな体つきの長身美人で、所帯染みたところがないものの一応は既婚者。その人扱いには相応しくない、華美な見た目をしている。
一方ではサイボーグと呼ばれているようだけれど、どのくらい"お直し"されているのかを素人目で判断するのは不可能だった。
サイボーグはイオナの発言のすぐあと、ゾロの腕に絡めていた華奢な腕をするりとほどいた。彼はそれを気にしない。
ただ不貞腐れたように「知ってる。」と呟いた。
彼はきっとわかっているのだろう。この状況がどれだけ危険で、不穏なものであるのかを。
イオナは泣きたくなった。
知っていならどうして?と問い詰めてやりたいけれど、それを口にした時点で終わってしまう気がした。心が崩壊してしまいそうだ。そうならない方法ならある、罵倒してしまえばいいのだ。ゾロを先輩を「クズだ。」「不純だ。」と罵ってやればいい。けれどそうしたところで、一時しのぎ。きっと自己嫌悪が待っている。
一部で冷静な判断を続ける脳みそに助けられ、イオナは押し黙る。そこを女が突いてきた。
「私から誘ったのよ。今日が初めて。ね? 」
サイボーグは場数を踏んでいるのか、ずいぶんと落ち着いた口調で言う。こういったところに来るのが常習的なことでないと、印象づける必要があると判断した様子だった。
もしかすると、「一度の過ち」として水に流せと言うつもりなのかもしれない。
イオナはサイボーグのふくよかな谷間から艶っぽい唇へと視線を這わせ、胸中で舌打ちする。ぶん殴ってやりたいと思った。
悔しさと惨めさと憤り。
三つ巴だ。感情が今、ごった返していることを強く理解させられる。こんな状況でよく、冷静な判断をしているものだとおもう。
自分とゾロの関係はただの同僚だ。ただの同期入社であり、一緒に仕事をしているだけの関係。不倫という、不埒な行いを咎めることは出来ても、責める権利はない。
イオナはそれを深く理解していた。仕事に支障をきたしていないのなら尚更だ。
「今日だけのつもりだったのよ。毎日のことじゃないんだってば。わかるでしょ。貴女も大人なんだなら。」
女は滑らかな口調で続ける。イオナが男の子だったら、コロッとしていたかもしれない。そんな思わせ振りな甘ったるい調子で。
けれど、彼女は瞬きひとつしない。その瞳には口止めを意図する鋭さ、強い脅迫の色が宿っていた。膝が笑う。怖くて仕方ない。けれど、黙ってはいられなかった。
「はい。大人なのでわかります。亭主以外の男性に身体を開いてはいけないって。不倫は一度でも不倫なんだって。」
イオナが淡々と言葉を返すと、サイボーグはあからさまに舌打ちした。ゾロは言葉の途中で「おい。」と言ったまま黙りこんでいる。
「お直し、いくらかかりましたか?」
「どういう意味よ。」
「サイボーグって素敵なあだ名だと思います。」
イオナは強がった。強がりで口角を持ち上げた。ゾロは視線を伏せてしまっている。めんどくさいことになった。とでも思っているのだろう。
「もういいわ。貴女、後悔するわよ。」
サイボーグであることを指摘された女はワナワナと震えていた。彼女はゾロを一瞥すると、「こんな子が同期入社って君も不運ね。」と吐き捨てる。
そして、高いヒールでアスファルトをカツカツしながらその場を後にする。
こんな状況で二人きり。残されてどうしろと言うのか。イオナはゾロを睨み付ける。彼は顔をあげた。仕事でミスをした時のような、そんなバツの悪そうな顔をしている。
「バカ。」
「るせぇ。」
「大バカ者だよ。」
「ほっとけよ。」
熱いものが内側から溢れた。視界が滲む。それがどういった意味での涙であるのかはわからない。ただ
胸が痛くて、苦しくて涙が止まらない。
ゾロは何も言わなかった。
何も言ってくれない。
それがまた惨めに思えて感情が込み上げた。
「死ね!ばか!」
感情的に叫ぶ。これまでスルーを決め込んでいた通行人が振り返るほど大きな声で。
言い訳なんて聞きたくない。そう思っているはずなのに、何か言ってほしくて仕方なかった。
「もういい!ゾロなんてしらない!」
捨て台詞を吐いて、踵を返す。 知らないもなにも、ただの同期入社じゃないか。恋人でもないなにを言っているんだ。これじゃあ、ただのお節介なヤツだ。いや、お節介なんて光速で通り越した、ただのバカだ。大バカ者だ。
イオナは走る。
夜の人の群れを掻き分けて走る。
「ちくしょう。」
夜の風は思いのほか冷たい。
きっとあの女先輩は何事もなかったように、旦那のいる家に帰るのだろう。温かい部屋で食事をとるのだろう。
若い男も安定した家庭も。その両方を手に入れた女がいる。なにもない自分がここにいる。喪失したばかりの自分がここに─。
そんな理不尽があってなるものか。
「ちくしょう。ちくしょう。ちくしょう…っ!」
イオナはただ繰り返した。執拗なまでにその言葉を繰り返し続けた。
END
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