ゾロ短編 | ナノ


馬鹿と馬鹿

またやってしまった。

そう思った時にはすでになにもかもが遅かった。イオナは小さく舌打ちすると、ポケットからスマートフォンを取り出した。

『今日は帰れません。』

同棲中の恋人に送るには言葉足らずのLINE。けれど、それくらいがちょうどいい。倦怠期のカップルなんてものは、きっとほんのわずかな駆け引きにより生まれる尻火を待ち望んでいるのだ。

イオナは椅子に腰を下ろしたままで、グッと伸びをした。深く呼吸をすると、埃臭くてカビ臭い部屋の空気を肺胞の一つ一つにまで感じる。

最初の頃は耐えられないと感じたこの臭いも、今ではほとんど気にならない。嫌だとも思わない。むしろ、集中して作業をするには必要なものであるような気すらする。

嗅覚が成長したのか、退化したのか。
慣れとは不思議な存在だ。

イオナはディスクに置いてあった冷たくなったマグカップを手に取る。甘いホットカフェオレは季節と室温のせいで、アイスカフェオレに降格していた。

「まだやってんのかよ。」

冷たいカップから唇を離したタイミングで、背後から声がかかった。イオナは椅子を回転させて、ゾロの方へと向き直る。

彼は回転椅子の背もたれと『対面座位』状態だ。すっかりパソコンには背を向けて、イオナの方を可笑しそうにみつめていた。

「うっさいなあ。」

作業用のパソコンは壁沿いにズラリと並んでいる。もとより6畳ほどの小さな空間なので、背中を向けあっていた二人の距離もそこそこ近い。

イオナは冷たいマグカップをゾロの額に押し付けた。

「やることないなら帰れよぉ。」

「ないなんて言ってねェだろ。」

「あるならやれよぉ。一体なにやってんのぉ。」

カップの底に残った液体が溢れない程度の攻防をしつつ、会話は続く。イオナはわずかに身を乗り出して、ゾロのパソコンへと視線を向けた。

そこに写し出されているのは無数のトランプ。
緑のシートは鮮やかで白が映える。

イオナは細めた目をゾロへと向けた。

「論文なんてやめて、ソリティアやろうぜ。」

「やだよ。遅くなる。」

「どうせ待ってる奴なんていないだろ。」

「いやいや。教授が待ってますから。」

「教授?お前、あのオッサンとできてんの?」

「は?」

ゾロの言いたいことを理解するのに数秒かかった。イオナは言葉の意味することを汲み取った上で、深く溜め息をつく。

「普通、人のLINE画面を覗く?」

「見えたんだから仕方ねぇだろ。嫌なら覗き見防止フィルムとATフィールド貼っとけよ。」

「ATフィールドは関係ありません。」

「俺は常に全開だけどな。」

「………。」

じっとりした目を向けられている自覚はあるのだろうか。ゾロはわずかに口角を持ち上げ、白い歯を見せて笑う。キザな笑みだ。寝不足の頭には刺激が強いと思えた。

「もうやめよう。頭痛い。」

「帰るのか?」

「まだ作業があるの。」

イオナはクルリと椅子を回して、自身のパソコンへと向き直る。さきほど消してしまったデータの復元をしなくてはならなかった。

ウトウトしていたからといって、デリートキーを長押ししてしまうなんてバカにもほどがある。深夜にソリティアしているバカよりもバカかもしれない。

自分に嫌になりながらマウスに手を乗せると、その手のひらにさらに手のひらが重ねられた。

それは手の甲越しにもわかるほどに分厚くて、ゴツゴツしている。それでいてアルコールを摂取しているのではと疑いたくなるほどに温かった。

突然の事に絶句していると、その隙に画面の右上にある×印をクリックするように誘導されてしまう。イオナは慌てて阻止した。

「な、何してるのかな?」

「別に。」

「あのさぁ。」

「手ェ、荒れてんぞ。なんか塗っとけよ。」

「そんなことはどうでもいいから。」

怖くて顔を動かせない。なにせ距離が近すぎる。ニアミスなんてものがあってしまえば、もうそれは事故じゃない。事件だ。

正直、ゾロに言い寄られるのは悪い気がしない。それがどういった目的のものであったとしても、展開を求めないイオナにとってはどうでもいいことだ。

そう、どうでもいい『はず』だった。

口先では嫌そうにしてみせるけれど、心拍数はもちろん跳ね上がっている。それを自覚してしまっているだけに、さらに質が悪かった。

フラフラしてしまう原因は彼氏との倦怠期か。はたまた、寝不足のせいか。手のひらの熱が情動に働きかけてくる。スイッチを押そうとしている。

「ぶっちゃけ溜まってんだろ。」

ゾロが耳元で囁いた。さっき飲んだカフェオレよりもずっと甘くて苦い響きで。

身体の芯がジュワッと焦げた。鳥肌ものの興奮なんていつぶりだろうか。無意識に瞼を閉じてしまう。

身を委ねる覚悟なんて必要ない。基本的にそういった面においては常に準備が完了している身体だ。

彼氏についても大丈夫。恋人への気持ちは、データのように切り離してしまえばいいのだから。

USBドライブに入れておいて、あとで、そう。ゾロとの思い出をフロッピーに焼いた後に、また読み込めばいい。

イオナは光速で躊躇いの感情を処理した。それは言い訳よりも質の悪い身勝手な発想だったけれど、それを咎める理性などすでに休息状態だった。

深呼吸の後、瞼を持ち上げる。

手の甲に感じる温もりに脈を覚え、この季節一番に活発な血流に全細胞が嬉々としている。イオナは顔をゾロの方へと向けた。

視線が噛み合ったそのタイミングで彼は言う。

「やろうぜ、ソリティア。」と。

全くの想定外。そして、肩透かし。

確かにパソコンの画面はソリティアになっている。セックスの話だってしていない。

でも、だけど、だって…

「ほら、早くやれよ。」

ワクワクしている風のゾロをよそに、イオナはしばらく放心していた。


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