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夜風の冷たい甲板。
マストに背中を預け座り込み、考え事をしていたゾロの元へ小さな足音が近づく。それが今しがた想いを馳せていた相手の足音だと気がついた彼は、閉じていた瞼を持ち上げた。
近づく人影。
イオナから歩み寄ってくることなんて、今まで数えるほどしかない。それはゾロが追いかけ過ぎていたせいなのだが、本人はまったく気がついておらず、こうしてわざわざ甲板まで逢いにきてくれたことを心底嬉しく思う。
さっそく我慢の効果が現れたのかと胸を踊らせたのだが、ちょっと状況が違ったらしい。
「ちょっといい?」
彼の正面に立ち止まったイオナが浮かべているのは、いつもの無愛想な表情ではない。彼の期待していた、はにかむ笑顔でももちろんない。
完璧なる怒りの表情だ。
まるで風呂場を覗かれたナミのように殺気だっており、ぶちギレているという表現がピッタリなほど憤っているご様子。
なにがなんだかわからないゾロは、しばらく呆けていたのだが、なんとか気を取り直して言葉を絞り出した。
「急にどうした?」と。
途端にイオナの表情がぐちゃりと歪む。ゾロを見据えるその瞳は涙で潤みはじめ、口元もへの字に曲がった。
「おい、イオナ…?」
今にも泣き出してしまいそうなその表情に、抱き締めたい衝動を掻き立てられる。ただそんなことをすればまた怒らせてしまうかもしれないと考え、無意識に伸ばしてしまいそうになっていた腕をなんとか引き留めた。
それでも心の声はまっすぐにイオナを求めていて、言葉にして態度にして想いを伝えたいと思ってしまう。
そんなゾロの気持ちなど露知らず、イオナは「どうして抱き締めようとしないのよ!」などと更に腹を立てていた。
今なら甲板には誰もいないし、ちょっとくらいなら許してあげたのに。なんでなんでなんで…。
不安だ。追いかけてくれないと不安だ。
ベタベタされると照れ臭いのに、なにもされないとすごく腹が立って不安になる。
そんな理不尽をイオナは吐き出す。
「なんで今日は離れて座ったの?」
「なんでって…」
「夕飯、全部食べれなかったのに、代わりに食べてくれなかった。」
突然の言及に困惑するゾロに向かって、不満をぶちまける彼女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。それでいて声には怒気がこもっているのだから、更にゾロは戸惑ってしまう。
いったい何が彼女の勘に触ったのか。
どんなに考えても答えは見つからず、結局は思っていたままを伝えるしかなかった。
「いや…、だって、俺にしつこくされるの嫌なんだろ?」
「そんなことない!」
更に強くなった語調。
なんでそんなに怒っているのかわからず、ゾロはつい「は?」と声をもらしてしまう。それに余計腹が立ったのが、イオナは訴える。
「い、いつ嫌だなんて言った?」
喉の奥から一つ一つの言葉を絞り出すように、
「くっつくなとは言った。たしかに言った。でも、それ以外はなにも言ってない。だから、だから、勝手に全部やめられたら困る!」
涙で頬を濡らしながら訴えた。
「へぇ。」
ゾロは感心したように小さく呟く。
なんだか理不尽に怒られた気もしないでもないが、初めて本音をぶつけられたような気もして嬉しさが込み上げてくる。
彼はここでやっと腰をあげ、イオナと対峙すると、涙の伝う頬をゴツゴツした指先で拭ってやった。
「だったらどうして欲しいか教えてくれよ。」
そんな彼の態度にイオナは一瞬、ほんの一瞬だけ照れた顔をして、すぐに悔しそうに表情を浮かべる。
このとき、なんとなくゾロは理解した。
イオナの素っ気ない態度も、冷たい目つきも、ふてくされた顔も全部照れ隠しなのではないかと。
「私は、私はただ…」
伏せ目がちに言葉を探す仕草が愛くるしい。不機嫌なのかと思うほど眉間を寄せている表情も、尖った唇も。
全部が可愛かった。
「じゃ、俺のことは嫌いじゃないんだな?」
「だから、私は一度だって、嫌いだなんて言ってないでしょ…。」
「でも突っぱねてはいるだろ?」
「べ、別に嫌いだから突っぱねてるんじゃないし…」
たどたどしくふてくされる恋人を前に、手を出すなと言われて我慢できるだろうか。
ゾロはその問いを否定する。
「どんだけ可愛いんだよ。」
おもわず口をついた台詞。今までの謎行動の全てが府に落ちた。嫌われてなくてよかったと安堵した。緊張が和らぎ、どうしても抱き締めずにはいられなかった。
イオナの身体をギュッと抱き寄せる。「キャッ」と女の子らしく悲鳴をあげて、スッポリ腕の中に収まった彼女は「急にやめてよ。」とふてくされた声を出す。
それでも身体を離そうとしないのは、きっとそういうことなんだろう。
「俺のこと好きなんだろ?」
「なっ!」
「だったら、黙ってこうされてろ。」
ゾロはかっこつけだ。キザだ。
だけど、腕の中は温かかった。
でもそれ以上に自分の顔が熱くなっているのがわかる。おまけに照れ臭さで口元はだらしなく緩んでしまっているため、今はここから離れられない。
別にイチャイチャしたいんじゃない。
離れられないからここにいてあげてるだけだ。
イオナは胸中で言い訳を繰り返す。
そんな彼女の胸中を見抜いているのかいないのか。ゾロはいたずらに囁く。
「素直じゃねぇヤツだな。ほんと。」
「うるさい…」
「訳わかんねぇよ。」
「ほっといてよ。」
「ほっといたら泣くんだろ?」
「泣いたりなんて!!!」
抱き締められたまま怒鳴るだなんて、ずいぶんとおかしな構図だ。でも、それはゾロが腕の力を緩めてくれないからで─
「あんまツンケンしてんと押し倒すぞ。」
「な、なに言ってんの!?」
トンッと胸板を押すと簡単に身体が離れてしまった。どうやら強く抱き締められているなんてのは、イオナの勘違いだったらしい。
そんな勘違いにまで勝手に照れて、恨みがましい目をゾロヘ向ける。ムッとした表情を向けられた彼は、困ったように笑いながら、イオナの顎にソッと手を触れた。
「その前にこっちだな。」
親指で下唇をなぞりながら、楽しそうにそう口にするゾロに向かって顔をしかめて見せるけれど、全く効果はない。
「隠さなくていいから、ちゃんと照れろよ。」
「照れてなんか…」
そこまで発したところで、唇に蓋をされてしまった。口内に流れ込む温かな息。慌てて口を閉ざしても、熱い舌が押し入ってくる。
後ずさって逃げようとするのに、身体を抱き止められて動けやしない。
やめてと言いたい。でもやめたくない。
恥ずかしい。でも嫌じゃない。
大きく脈打つ鼓動が、波の音すら掻き消してしまう。唇から全身にゾロの熱が伝わって、唇から大好きが流れ込んで、唇から…
ソッと離れた唇。目を合わせるのが恥ずかしくて、すぐに視線を伏せてしまう。それでもなんとなく、ゾロが笑っているのがわかって悔しい。
「なによ…」
「別に。なんもねぇけど。」
イチャイチャなんてしたくないのに、ベタベタなんてしたくないのに、ちょっと良いかも?なんて思ってしまった自分が情けない。
思わされてしまったことが悔しい。
「さぁ、中に入るか。冷えるぞ。」
頭をポンポンと撫でて船室に向かうゾロ。あんな風にキスしておいて、それでおしまいってそんなの…
「待ってよ…」
おもわず呼び止めてしまう。
彼は、「ん?」と振り返った。
悔しい。腹が立つ。なんでこんなに余裕なのかと。本当に、腹が立って仕方ない。
もっと、もっと欲しがってよ。
していることと、考えていることがめちゃくちゃなのはわかっている。それでも我慢できなくて、つい口にしてしまう。
「もう一回、してあげてもいいけど…」と。
そんなイオナをみて、ゾロはただ嬉しそうに笑った。
END
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