ゾロ短編 | ナノ


甘口カレー

チャイムを押すために伸ばした指を一度引っ込める。この瞬間のために奮い起たせたはずの勇気は、すでに減少しはじめていた。

けれど、諦めるわけにはいかない。引き返すなんて出来るわけがない。なんてったて、カレーを作りすぎてしまったのだから。

隣の部屋のドアの前でたちすくむイオナは、ホーローの鍋を両手で持っていた。そのためチャイムを押すには両方の腕を伸ばす必要がある。

鍋の重量をそのままに、取っ手に引っ掛けていた右手の人差し指だけをピンと伸ばして目線の高さにあるチャイムを押すのだ。

ひたひたにカレーが入った鍋はほどほどに重い。けれど、それ以上に気が重かった。飴色玉ねぎを炒めていた時はあんなに浮かれていたというのに、今ではこの有り様。

自分がこんなに臆病だとは思ってもみなかったと、イオナは泣きそうになる。ずっと鍋を持っている腕は、すでに悲鳴をあげ始めている。

「こんにちは。カレーを作りすぎてしまったんです。腐らしても勿体ないので、もらっていただけませんか?」

そうやって距離を縮められればと思った。時々、エレベータで乗り合わせるお隣さんと。ちょっと無愛想だけれど、ものすごくタイプな異性と。

イオナはこのドアの向こうにいるであろう男性の顔を思い出し、すでに暴走していた心拍数を更に加速させた。

息切れしながらも早鐘を打つ心臓は、まるで42.195キロ走った後のようだ。深呼吸すれば心臓が喉から出てきてしまうかもしれない。

イオナは渇いた喉で無理矢理に唾液を飲み込んだ。

どちらにしたってこのチャイムを押すしかない。押せなかったならこれを捨てなくてはならなくなったしまうのだから。

イオナは手元の鍋へと視線を落とす。

理由なんてなんでもよかった。適当なきっかけを作って、少しだけ会話を弾ませられればいい。インパクトを残せれたらいい。その供儀がカレーだった。そのためだけに作られたカレー。味の保証はない。

アパートの下にあるお隣さんのポストには、「ロロノア」と名が打ってある。それを書いたのは彼なのか、それとも管理会社か、大家か。どちらにしてもとても丁寧なもじであることは間違いない。

ちなみにイオナは無記名だった。

きっと彼はこちらの名前を知らないだろう。つまりはちゃんと名乗らなくてはならない。なにより、自然に訪れた感がなければこの計画は不発に終わってしまうことはおろか、不信感を与えてしまうだろう。

イオナは深呼吸した。心臓はまだ高鳴っているものの、飛び出してはこなかった。

両腕を慎重に伸ばし、指先でチャイムに触れる。そこに到達するまでに数秒も掛かっていない。けれど、もうずっとそうしているみたいに手はプルプルと震えている。

人差し指の腹が白いボタンを押すと、こちらの緊張とは裏腹な軽薄な音が響いた。チャイムの音は小さなワンルームには大きすぎるのか、外までしっかりと響いてくる。

このアパートのチャイムの音がそうであることをしっていたはずのイオナでも、悲鳴をあげてしまいそうになった。口を押さえようと手を口元へと引き寄せるけれど、そこには鍋がある。

大きく吸い込んだ息は、咄嗟に飲み込んでしまうことにした。そのタイミングでドアが開く。中から出てきたのはダークグレーのスウェット姿のお隣さん。ロロノアさんだ。

「こんにちは。」

渾身の笑顔なんてものは作れなかった。きっと緊張がヒシヒシと伝わってしまっただろう。極度の緊張から表情を強張らせるイオナ。ゾロはそんな彼女をみて、さらに彼女の手元の鍋をみて怪訝な顔をする。

「どーも。なんか、用か?」

「あの、これ、作りすぎてしまって…」

「カレーだよな?」

「はい。あの、作りすぎてしまって。」

「それはさっきも聞いた。」

ゾロは意味がわからないといった顔をする。
相変わらず表情は険しいけれど、そういった男性の方が勇ましく見えてタイプだった。

レディにすべてを言わそうだなんて不躾な。行間で気がついてくれてもいいのに。そんな理不尽な不満を一瞬抱いてしまいながらも、イオナは慎重に言葉を選ぶ。

「残して腐らせてももったいないので、出来れば食べていただけたらと思って。あの、私は隣のものです。」

「隣の?」

「隣の?」

「誰。」

「イオナです。」

「なんでファーストネーム名乗るんだよ。」

ゾロは少しだけ口元を緩めた。疑うように細めていた目尻は下がった。キザったらしく口角が持ち上がる。白い歯が魅力的だった。

「作りすぎたって、自分の食う分くらいわかるだろ。なんで食うのに困るほど作るんだよ。」

「それは…、えっと…」

「悪いけど貰えねぇわ。」

「あ、はい。って………、えっ?」

予想外の返事に動揺してしまう。というより、この返答があることを予測してはいた。ただ考えないようにしていたために、瞬時に対応できなかった。

あからさまにたじろぐ来客を前に、彼はどう思ったのか申し訳なさそうに言葉を続ける。

「うち、コンロもねぇし。炊飯器もレンジもねぇだよ。だから貰っても困るつーか。」

「それ不便じゃないですか?」

「別に。」

今度はイオナが質問する番であった。少なくとも、された分だけの質問は許されるはずだ。

「普段、お食事はどうしてるんですか?」

「まかないとか、コンビニとか…。ほら、そこに出来たろ。新しいのが。あっこいけば大抵は揃うし、湯ぅ注いでもって帰ってくればいい。」

「たしかに…」

イオナは納得してしまう。彼女はいつも自炊するにおいて失敗する質だ。買っておいた野菜は腐らせるし、作る段階になってあれがない、これがないとバタバタしてしまう。

自炊は慣れた人でないと割高なのだ。

「だから悪ぃけど…」

彼は右手でドアを押さえた姿勢のまま、身を引っ込めようとする。けれど、そのタイミングでグゥーと盛大に腹が鳴った。

彼は気まずそうに視線を泳がせる。険しい表情から滲み出る照れ。その黒い瞳のわざとらしい動きに、イオナは吹き出してしまいそうになった。

「よかったら、これ、うちで食べませんか?」

「は?」

「うちなら炊飯器もあるし、コンロだってありますから。狭いけど、その、ちょっと食事するだけなら。本当になんにもない、ただのしがないワンルームですけど。」

「しがないって…」

彼はその単語だけを繰り返し、黙り込んだ。まるでイオナを測っているような、そんな間だった。

「そんなホイホイ男を部屋に上げんのか?」

「いえ、そうじゃないです。ただご飯食べるだけなら。その、隣人ですから。問題ないと思って。本当になにもない部屋ですから。」

「なにもない、ねぇ。」

ゾロは可笑しそうに笑う。からかわれているような気がして、照れ臭くなった。イオナは黙っていられない。

「だって、なにかあったら困るじゃないですか。ロロノアさんだって、なにかあったら困ると思いますけど!」

その『なにか』というのは、事象的なことなのか、それとも物質的なことなのか。どちらを想像するかによって、返事は異なるだろう。

イオナは上目使いに彼を睨む。それはちょっとだけ不貞腐れたような表情だ。彼は困った風に肩を竦めた。

「わかったよ。食いにいけばいいんだろ。」

「え!いいんですか?」

「捨てるの勿体ねェだろ。」

呆れたように吐き捨てる隣人を前に、「この人は振り回され慣れているな」と、振り回し慣れているイオナは考える。

想像していたよりギュッと距離を詰められたことが嬉しく、少しだけ楽しくなってきた。

「ご飯、炊くのでちょっと待っててください。」

「わかった。」

「たぶん、30分くらいですから。」

イオナの言葉に、ゾロは「あぁ。俺は着替えるわ。」と呟いた。そのすぐ後にドアがバタンと閉まる。

視界から想い人が消えた途端に、緊張の糸が途切れる。思わずガッツポーズしそうになって、自分がまだ重たい鍋を持ったままであったことを思い出した。

早く米を炊かないと。

はやる気持ちに急かされながら、鍋を持ったまま自分の部屋のドアの前まで戻ったイオナ。彼女はそこで思い出した。

「うちに米なんてない。」と。


END


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