カフェインなんとなく眠れなくて、ベッドから抜け出したのはだいたい30分ほど前のこと。
部屋で本を読もうかとも思ったけれど、照明の灯りや物音でナミやロビンを起こしてはいけない。単純にそう思って、なんとなく生け簀の前まで出てきてしまった。
残念なことに読もうとしていた本は、うっかり部屋に忘れてしまった。これでは完全に手持ち無沙汰だ。時間をもて余すことになってしまったイオナは、ただぼんやりと水槽を眺めていた。
そこに一つの足音が近づいてくる。
それは今が深夜であることを忘れてしまうくらい、堂々とした音だった。おまけにぶつかり合う鞘の音が、無遠慮に足音と共鳴している。
こんな時間に一体何を警戒して刀など持ち歩いているのだろう。しかも三本も…。
謙虚さの感じられない深夜の騒音に対して、イオナは少しだけ思い付く。
きっとこの傲慢な態度こそ、彼の自尊心の現れなのだろう。俺は誰にも影響されないという、意思表示なのだろう。と。
ほんの数秒前までぼんやりしていたはずなのに、どうでもいいことを考える時になると脳みそはやけに活発だ。
もっと普段から活性化されていてくれれば、こんな風に時間を無駄にしなくても済んだと言うのに。
部屋を出る際に本を忘れてきたという失態を思い出し、イオナは溜め息をつく。
本を読まないのなら部屋に居ればよかったのだ。ベッドの上で退屈していればよかったのだ。
考えるほどに馬鹿馬鹿しくなってきて、イオナは立ち上がった。そして、ずっと近くへと迫ってきた騒音の方へと顔を向けてみる。
そこには案の定、ゾロの姿があった。
どうやら彼も寝起きではないらしい。普段よりちゃんとした顔をしている。
「よう。」
先に口を開いたのはゾロの方だった。
イオナはその挨拶に対する正しい答えがわからず、とりあえず「こんばんは。」と返事をしてみた。
どうやらそれで正解だったらしい。
ゾロは唇の端を軽く持ち上げた。
「こんな時間になにやってんだよ。」
「魚、見てたの。なんか気持ち悪いよね。どうしてこんな色なんだろう。」
「寝ないのか?」
「眠るのって退屈だから。」
「へぇ。」
ゾロはどうでもよさそうに声を漏らした。特に用事がある訳ではないようで、彼もまた水槽へと視線を移す。
イオナもまたそれに習った。
ゾロが少しだけ歩み寄ってきた。
ほんの少し後ろにいるのだとわかる。
距離のせいか空気にお酒の匂いが混じる。
どうしてこの人の前では要らぬことを口走ってしまうのだろう。数秒前に口にした自分自身の言葉に嫌になった。
けれど、それにへこたれていては、このまま無言の時を堪え忍ばなくてはならなくなってしまう。他の誰かならいい。ただ、ゾロとの沈黙はなんとなく耐えられないような気がした。
イオナは慌ただしく口を開く。
「コーヒーでも淹れようか。」
「そんなの飲んだら余計に眠れなくなるだろう。」
「タンポポコーヒーがあるよ。」
「なんだそれ。」
「ノンカフェインなの。カフェインが入ってないから眠れなくならない。それに二日酔いにもいいんだって。」
「へぇ。」
相づちの声は隣から聞こえた。
突然のことにギョッとして身をそらす。
けれど、だからといってどうしたこともない。なにせ、彼の視線はまだ水槽へと向けられていた。
安心していいのか、よくないのか。
よくわからなくなってくる。
さっきまであからさまに足音を立てていたくせに、こういった時にだけ忍び足だなんて卑怯だ。
妙なところに腹を立てながら、イオナは隣に立つ異性の横顔を見上げる。ゾロは水槽の何をみているのだろうか。聞いてみたいと思う反面、この状況を壊してしまいたくないとも思った。
さっきまでは耐えられないと思っていたはずの沈黙が、今では極上の品なように感じている。ゾロの横顔にはそれだけの価値があった。
結局彼はコーヒーを飲むのだろうか。飲まないのだろうか。
気になるけれど、どうでもいい。こうして居られるのならば、ちょっとくらいの疑問は封印してしまえばいい。
そう開き直ったところで、ゾロが口を開いた。
「よく、魚みてるよな。」と。
突然のことに「え?」と間抜けた声が漏れる。
どんな顔をするべきか迷う暇もない。きっと今世紀最大のアホ面をしていたに違いなかった。けれど、やっぱりゾロの視線は水槽に一直線だ。
「よく、ここにいるだろ。しかも、この時間に。」
「そう?」
「気配でわかるんだよ。」
「そう…」
「そのくせ、気持ち悪いって。なんだよ。気持ち悪いって。」
ゾロはクスりと笑う。みたことのない柔らかい表情に動揺してしまう。けれどそれはやはり横顔で、視線はこちらにない。だからこそ、きっと見つめて居られたのだろう。
「気持ち悪いものは、気持ち悪いの。鱗なんて無色でいいじゃない。派手にする必要…」
言葉の途中、イオナは静止する。それは視線をゾロの横顔から、水槽のアクリル面へと滑らせたタイミングだった。
「俺の顔になんかついてたか?」
「…いや、そうじゃ、ない。けど…」
アクリルに映ったゾロと目が合っている。
ずっとアクリル越しに見つめられてたという事実に、頭が逆上せてクラクラした。
彼は何故か照れたように笑う。僅かに口角を持ち上げたその表情は、さっきみた横顔より遥かに眩しくて、みていられない。
パッと顔を伏せたところで、ゾロがもう一度クスりと笑った。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
動揺しているせいか何も考えられない。駆け足の心音がダイレクトに鼓膜に響いた。絨毯の濃い色が今が深夜であることを強く主張して、奥歯がカタカタ鳴りそうなほどに緊張してしまう。
「あ、あの…」
何を言うつもりなのか、喉が勝手に鳴って、唇が勝手に動いた。それと同時に、不思議と顔をあげられた。
アクリルに映ったゾロはやっぱり笑っている。その表情は相変わらず傲慢で、寛大だ。そして、毛布のように柔軟で温かそうだ。
勇気を振り絞り、アクリルから隣へと視線を移す。ゾロは相変わらず、水槽をみつめたままだ。
「普通のコーヒーにしてくれよ。」
「え?」
「眠たくなったら惜しいだろ。」
ゾロははにかんだ笑みでそう言った。
普段は見せない年相応の表情に、緊張が僅かにほだされおもわず呟いた。
「私も、そう思う。」と。
END
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