不純物だらけの世界は苦しいだけだから



その日の夜、ローザは体調を崩した。
連日の疲れが出たのか、張りつめられた精神が限界を迎えて千切れるように意識を失いかけたので、セシルはどきりとして、飛空艇の進む道を近場の村へと変更した。
「大丈夫よ、この船でも眠れば回復するわ、だから、大丈夫」
セシルの腕に支えられながらぽつりぽつりと呟かれていく言葉は、自分のせいで全員の歩みを止めてしまう事への罪悪感であるが、優しくひやりとした手が額に触れて、彼が至極哀しそうに首を横に振ったとき、ローザは落ち着かない呼吸を飲み込んで、大人しく意識を手放したのだった。

目を覚ますと、木でできた部屋は橙に染まり、夕暮れ時だということを知らせた。体の部分部分に怠さは残るものの、熱は引いたようだ。
むしろ寝すぎた故の怠さが色濃く、体を起こし、うんと背伸びをした。
額に乗っていたタオルはまだ冷たく、誰かは分からないが、ずっと取り替え続けてくれていたのだろう。

ベッドの脇にある洗面器へタオルを戻し、頼りない足つきでスリッパを履き、手洗いへと向かった。
それらを洗い、新聞を読んでいた宿屋の主人へ返却すると、もう平気かい、ローザの様子を見て、安心した声で訊ねられる。お騒がせして申し訳ありませんでしたと頭を下げると、主人は皺を深くして微笑んだ。
今日はいい風が吹く、二階へ行き、少し当たってくるといいよ。窓から覗く木々の揺れを指さし、そう言った。ローザは一礼して、どうやらベランダがあるらしい二階へと向かう。
階段はきしりきしりと踏むたび抜けそうな音がした。心もとないそれを上り、扉を開くとぶわりとまるでカーテンのように膨らむ風が肌を伝う。春特有のあたたかい風だった。
目も開けられないような風が去っていくと、先客が視界に入る。束ねられた緑の髪を破天荒な風にいたずらに吹き乱され、何度整えようときりがないので、仕方なく手で押さえていた。そんな様子がおかしくて、くすくすと笑ってしまう。彼女が自分に気づいたようで、瞬間ぱっとした笑顔を向けこちらに駆け寄ってきた。

「ローザ、もう大丈夫なの?」
「ええ、ありがとうリディア」

平気だと伝えても、不安げであっさりなら安心なんて油断してはいけない、そんな表情を崩さないリディアにローザは苦笑して、木で出来たつるつるとした手すりを掴んだ。

「セシルには会った?」
「いいえ、起きてからまだ会っていないわ」
「とっても心配そうで、ずっとローザのそばにいたんだよ。付きっ切りで看病してた。変わろうかって言っても大丈夫の一点張り」

セシルもローザも、大丈夫大丈夫って、全然大丈夫じゃないのに。セシルだってあのままじゃいつか自分が倒れちゃうわ、もっと人に頼ればいいのよ。
話していて怒れてきたのか自棄になったように言うリディアの様子が可笑しくて、そして何より愛しく、ローザは謝罪の言葉を口にしつつも、頬を緩め、笑ってしまった。

「ローザ!」

遠くから自分を呼ぶ声がして、突然だったのでとても驚いた。自分だけじゃなく、リディアもぽかんと目を丸くしている。
そちらを見ると、自分たちより遥かに驚き、焦った顔をしていたかもしれないセシルが、息を切らして背を曲げていた。
彼の元へ行こうと考えた時にはもう相手は此方まで来ていて、その感動的な速さにリディアは蒼い瞳をぱちぱちと瞬かせ、呆然とした。こんなに小さな宿屋で何処を探し回ったらこんなに息が切れるのだろう、と内心考えたが、容量のなさと運のなさが丁度合流してしまったのだろう。そう納得することにした。

「少しその場を離れていたら、ローザがいなくなっていて」
「落ち着いてセシル」

ぜえぜえと呼吸が邪魔をして上手く言葉が繋がらない、背中を擦ってやると少しずつ落ち着いてきた。ありがとう、リディア。戦いの最中では当然見られない、照れくさそうにへにゃりと笑うセシルの頼り気のない表情に、リディアは内心呆れつつも、深く微笑んだ。
その様子をひとしきり眺めて、ささっとその場から逃げるように立ち去った。あとでエッジに話を聞いてもらおう、あの二人は本当に、私たちがいないと無理ばかりするわ、と。

「恐らく、今ここで風に当たっているということはそれなりに体調は良くなったと思うんだけれど」
「ええ」
「でも僕は心配で」
「私は白魔導士よ?」
「もちろん分かっているさ…。だけどそんな白魔導士の君が倒れてしまうほど無理をしていたという事が、とても不安なんだ」

その言葉はきっと、自身の体調管理はしっかりしろ、というローザに対する説教ではなく、仲間が倒れる寸前まで無理をしていたという事実に気づく事ができなかった自分への叱責なのだろう。
長年傍にいるが、自己犠牲的な性格はずっと変わらない。

「セシル、さっきリディアに怒られていたわ」
「ええ?」
「私に付きっ切りで、変わってもくれなかったって。私の看病をしたがってくれたのかしら、それともセシルに構ってほしかったのか」
「そ、それはないよ」
「ふふ、だったら私は愛されているわね」

「…」
「ありがとう、一晩中私の傍にいてくれて」
「…僕がそうしていたかったんだ」
「私、みんなのことが大好きなの。だから迷惑かけないようにって思っていたけれど、もうやめるわ。もっと、人に甘えるようにする。だからセシルもね」
「…うん、そうだね。ありがとう、ローザ」

お礼ならリディアに言うべきだわ、そうだね、すっかり暮れた日の中、二人でくすくすと笑った。
扉の向こうから二人を呼ぶ声がする。エッジとリディアだ。「もうご飯の時間だよ、いつまでイチャイチャしているの。ローザはまた風邪ひきたいの。」わざと大声にしているようにもとれるその言葉が、一階まで聞こえていたらたまったものではない。
慌ててセシルが右手を伸ばすので、少しびっくりしながら、おずおずと左手を差し出すと、しっかり掴まれた手のひらに思わずくしゃりとした笑みを浮かべてしまった。二人は、さぞ唇を尖らせているだろう、おかしな表情が目に浮かぶエッジとリディアが待つ所まで、走るのはよくないからと、早歩きで向かう。足が弾んだ。


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