「それじゃ、先生」
「ええ、気をつけて」
「さよなら……」
高梨の背中にぴったりと頬をつけながら、奈津が手をゆるゆると振った。微笑ましくて、満月も手を振って応える。
二人が帰ってしまった保健室は満月たった一人で、校舎の中やグラウンドから聞こえる生徒の声で奇妙な賑わいがあった。奈津がいましがた使っていたベッドの片付けをし、残っていた事務作業をする。
「ん、んー」
ひとしきりの仕事が終わり、デスクで丸めていた背中をぐんと上に伸ばした。窓の外を見ると、綺麗な夕焼けが夜に変わろうとしていた。もう、日も短くなってきた。
戸締りをしようと、窓に近付いた。桟に手を添えて外を見ると、少し遅めに帰っている生徒たちの背中が校門に向かって並んでいる。さわ、と入りこんできた秋の風が、金木犀の香りを運んだ。
賑やかな生徒たちの声、楽しそうな笑顔、自分にはなかった物ばかりだと懐古する。
高校生、青春の時代。輝いて、眩しくて、甘酸っぱいような気持ちになるその時代を、満月は知らなかった。
思い出すのは、父親の怒声、母親の泣き声。いつだって何かに怯えていた。学校でさえ、たった一時の逃げ場というだけで、助けにはならなかった。
母親が目の前で殺され、父親が目の前で死んだ。父親の死は事故のようなものだったが、満月は自分が殺したと信じて疑わなかった。
何を間違えたのか、今でもわからない。まだ子どもであった自分に何ができたのか、もっと違う生き方ができたんじゃないのか、今でも後悔して考え続けている。
「…………」
誰も、幸せにはなれなかった。
いや、たった自分だけが幸せを手にしてしまった。その後悔と罪の重さを、いつでも背中に感じていた。
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