けんちゃんに見られたら、「何頑張っちゃってんの?」と爆笑されるだろうなぁ、と思った。それくらい、一生懸命だった。
あずは、不器用な俊太の言葉を受け取って、嬉しそうに笑った。
『手話、わかるの?』
『これしかわからない』
『覚えてきてくれたの?』
直球なあずの質問に一瞬ペンが止まったけれど、
『うん』
素直に白状すると、あずはまた嬉しそうに笑った。
よく笑う子だな、と見ながら思う。笑っているのが似合う子だな、とも思う。
かち、かち、と時計の針の音だけが聞こえていた。ときどき廊下の奥で、女性の「ありがとうございました」の声も聞こえてきた。あずに聞くと、あれは姉で、ゆりと言うらしかった。
あずは、俊太の一つ年下の十六歳だった。三人家族で、父親がパン職人ということらしい。家族でパン屋を経営しているという。
「……ん?」
自己紹介も一通り済んだところで、あずが徐に、自分の口を指さした。よくわからずに首を傾げると、
『読唇できるから、声でも、少し大丈夫』
そんなものがあるのかと感心した。試しに、と口を開いた。
「あず」
初めて、名前を呼んだ。何故か心臓がどきどきして、なんでだよ、と自分に突っ込みをいれた。そんな初々しい気持ちなんて、もう無くなったと思っていたのに。
あずは、また嬉しそうに笑った。俺の手を取って、指を折り、形を作らせた。
『あ、ず』
あずの口が、音もなく動いた。手話を教えてくれたんだと気付いた。不器用に俊太だけでやってみると、あずは何度も頷きながら笑って、俊太の手を大事そうに包んだ。
当たり前なはずだった。誰かの名前を呼べること、不自由なく意思の疎通が出来ること、自分の気持ちが伝えられること、すべてが当たり前だった。
あずが握ってくれた右手を握りしめた。たった一つ、名前を呼べただけで、名前を呼べるようになっただけで、嬉しくて仕方がなかった。
一つ一つの言葉を、大切にしていきたかった。
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