あずは俊太の手を引いたまま、カウンターの奥の方に入っていった。カウンターに向かって左手にはパンを作る工房があるが、右手には暖簾がかかっていて、その先に廊下が繋がっていた。自宅兼店と言ったところで、あずが靴を持って家にあがっていくので、俊太もそれに従った。
廊下を進んで真っすぐのところに玄関があり、そこに靴を置いた。どうやらパン屋の真後ろが自宅の入り口になるらしい。
引かれるままに、居間に案内された。三人掛けのソファが一つあり、その前のテーブルに座るよう促された。どうするべきか戸惑っていたら、あずがそこで待っているように、と手を出して俊太の動きを制した。ととと、と跳ねるような歩き方で、居間の隣にあるキッチンで冷蔵庫を開けていた。
「…………」
あずに引かれた手を、こっそり見た。小さな手だった。
「……ねーわ……」
何でこんな、純情な振りをしているのか。聞こえないのをいいことに、ぽつりと呟いて膝を立てた。
携帯だって、あの女性に預けるだけで良かった。お茶も、断れば良かった。
それでも、頭の中で動画をずっと繰り返している。膝を抱くようにしていた手を、少しだけ動かしてみた。
自分らしくない。そう思うのに、右手はそれを覚えている。
「……あ、ありがと」
あずがグラスに入れた麦茶を持ってきてくれた。俊太の隣にちょこんと座り、一緒に持ってきたメモ帳に、ペンで何かを書いて示した。
『名前は?』
返事を求めるように、あずがメモ帳とペンを俊太の前に滑らせた。
右手を、ぐっと握りしめた。
「俺、の……名前、は」
古典の時間をまるまる潰して、覚えた言葉はこれだけだった。
この世の中は便利だ。検索すれば、手話の動画はいくらだって出てきた。それでも、検索しないとあずとはコミュニケーションが取れないということ自体が、ショックでもあった。
文字にすることは簡単だった。なんなら、スマホに文字を打って見せるだけでも良かった。でも、あずにはあずの言葉があると知った。動画を思い出しながら、何度も机の下で練習したそれを不器用に動かした。
「なかぞの、しゅんた」
あずは、ぽかんとしてその手を見ていた。
馬鹿馬鹿しかった。たったそれだけに一生懸命になっていた。
けれど、どうしても、伝えてみたかった。どうしてなのかはわからないけれど、純粋に、伝えたいと思った。
『あってる?』
恥ずかしくなりながらも俊太がメモ帳にそう書くと、あずはぱぁっと笑って、右手の親指と人差し指で丸を作った。
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