「えっ、ちょっ……ぶっは!え、なに、何なの!?」
「けんちゃん日本語喋って」
「いやいや、冷静すぎだろ!お前なんつー本読んでんの」
うるさいなぁ、と思いながら口を噤んだ。本は普段読まないし、図書館なんて通ったこともなくて何であんな静かなところでじっとして本読めるんだ……と思っていたけれど、今ならわかる気がした。
あの日の帰り、駅近に住んでいる悠平に強引に家まで連れていかれた。何かと思えば一冊の本を譲り受けたのだった。
「俺、もう必要ないから」
手話の、本だった。読み古されてお世辞にも綺麗とは言えなかったけれど、悠平が押し付けるように渡してくるので、思わず受け取ってしまった。
「先輩が手話覚えてきたの、あず、嬉しかったみたいで。……別に、先輩のためとかじゃないんで。あずが喜んでくれれば、それでいいんで」
むっとしながらも顔を赤くして、悠平は言った。
本当にこいつはあずのことが好きなんだなぁ、と感心した。
それから、俊太は手話の勉強を始めた。かっこ悪いとは思った。ダサいとも思った。努力なんてしたことはなかったし、こんなことをして何のプラスになるのかと疑問にも思った。それでも、悠平とあずが楽しそうに話す姿が忘れられなかった。
画面を通してではなく、紙を通してではなく、あずと喋ってみたかった。
あずが喜んでくれれば。その主張には概ね同意した。
「えっ、何、手話?」
「そ」
「そんなん覚えて何すんの?ボランティア?」
真剣に本を読んで両手をわきわきと動かす俊太の目の前に座り、けんちゃんはうるさく椅子をがたがたさせて笑った。
うるさい、けんちゃんにわかるもんか、とそれを黙殺した。
右手で拳を作り、こめかみをとんとんと叩いた。
「なに、何だよ、今の何!?」
「うるさいっつったの」
「えっ、すげー!」
俺にも教えろっ、とけんちゃんは今日も元気よくピンで前髪を上げながら、反対側から本を覗きこんできた。けんちゃんはいつも面白おかしく笑っていて、そのくせ素直に良いと思ったことにはどんどんのめり込んでくるから、そういうところが俊太は好きだった。
「でも、まじで何で手話?」
「俺の好きな子が手話使うの」
「好きな子?どの子?何番目の誰?」
「うるせ」
また、拳でこめかみを叩く。けんちゃんも珍しいものを見るように本を捲り、手を不器用に動かした。
「これ、絶対に役立つだろ。『好き』」
図らずも、俊太は『好き』を覚えた。
prev /
next