花が待つ雨 | ナノ


7  




 あと四日。

 薫は夏の間、この町にいる予定なのだと言う。薫の祖父母は数年前に亡くなってしまっていたが、家が残っているらしい。そこの管理を兼ねて、この町で夏を越すようだった。
 俺は相変わらず、おばあちゃんの家でごろごろと過ごしていた。ごく一般的な普通高校の出す夏休みの課題はそう多くないが、もう俺はこの夏で終わることを決めていたので、全く手をつけなかった。おばあちゃんは畑に行っているか、友人と一緒に町を出て買い物に行くか、俺のことを構わぬ様子で自由に過ごしていた。そのくらいがちょうど良かった。
 あと四日、と俺は思っていた。自分で決めたタイムリミットは、一週間だった。この町にやってくる前から、その思いはあった。すべてを狂わせたこの町で、この夏で、俺は最後にしようと思っていた。
 おばあちゃんは家にいないことの方が多かったので、俺も構わず外に出て、家の辺りを探検しようと坂を上った。林道は日陰が多く、風も遮られることなく入ってくる。涼しくて心地よい、薫と行った神社に行って一休みし、涼につられて川に入った。ひやりとした水は気持ちよかった。透き通る水に苔のついた石が見え、小さな石を蹴ると、蟹が逃げて行った。
 安物のサンダルを片手に、川の流れに逆らうように、上流に上がってみた。川は高低をぐんぐん流れていた。十分くらい歩いたところで、広い池に出た。いくつもある小さな川は、この池から伸びているようだった。池の奥には滝があり、川の水はずっと上のほうから注がれていた。
 大きな岩にサンダルを置いて、その隣に座った。足だけを池につけて、ぱちゃぱちゃと遊ばせた。ここはひどく静かだった。虫や風や水の音もあって、喧しいのに、それでもここは静かだと思った。
 俺が住んでいる町は都会だ。外に出たら人に会うのは当たり前で、通学に使っていたバスはいつも満員だった。住んでいるマンションは大通りに面していて、夏の今はベランダを網戸にすると、車の音がうるさいくらい聞こえた。太陽の光はマンションやビルの不自然に人工的な色に反射して、じりじりと照りつけてくるようだった。日傘をさした人を避けながら、横断歩道を渡るのが日常だった。夜は夜で、コンビニの光が眩しくさえ見えた。そこは自然の音はなかったのに、それでもいつだって、煩かった。
 都会は都会の、田舎は田舎の、音や色や匂いがあった。無意識のうちにその住み分けが出来ていて、都会の人が田舎にきたって、人の少なさには驚かない。田舎の人が都会にきたって、さほど驚きはしないだろう。それはそういうものだという、住み分けをしてしまっているからだ。けれど思い返せば、同じ時代の同じ時間を生きているのに、こうも住んでいる世界や密度や時間の流れが違うのは、なんだか勿体ないような気持ちもあった。住み分けの無意識さが、互いをフィクションに見せているようにも思えた。
 俺にとってこの町は、フィクションだった。都会に置いてけぼりにされた町だった。最初はどこだって、こうやって静かな自然から生まれていくのに、いつの間にかそれは忘れ去られていった。田舎の町は、忘れられていくしかなかったのだ。
 あの祠を思い出した。おばあちゃんが死んでしまったら、あの祠もいつか、誰にもお供えされてもらえない、忘れられたものになってしまうのだろう。最初は誰だって、そうやって崇拝していくものがあったのに、いつの間にか忘れ去られていった。
 俺は、忘れられないように、雨をもらったのかもしれない。
 陽が暮れるまでその辺でぶらぶらとしていて、ようやく雨雲が近付いてきたので、俺は帰ることにした。俺が呼んだのかもしれないし、ただの夕立かもしれなかった。家に着く頃にはぽつぽつと降りだしていて、玄関に入るとおばあちゃんの靴があった。帰ってきているらしかった。台所から美味しそうな匂いがして、もうご飯の時間かと気付いた。おばあちゃんの晩ご飯は、いつも早いのだ。
 おばあちゃんの作るご飯は美味しい。畑で採れた野菜は、都会の売り物とは違う旨みがあった。俺のものとは全然違う、皺だらけの小さな手で、それらは一から作られる。
 何かを生みだすことを、俺はしたことがない。誰かのためになったことも、必要となったこともなかった。だから今だってこうして、捨てる物もなくここにいた。
 おばあちゃんと囲む食卓は、随分静かだ。テレビも点けず、黙々と食べていた。特に話題もなかったし、その沈黙が苦しいと思ったこともなかった。
 小学生の頃には、おじいちゃんがいた。病気をしていて、あっという間に死んでしまった。おばあちゃんはそれからずっと、この家を一人で守っていた。

「寂しくないの」

 なんとなく、聞いてみた。おばあちゃんは何のことだかすぐにわかったらしく、ふふ、と笑った。

「寂しくないよ」

 皺だらけの手に握られたお箸が、漬物をつかんだ。どれくらいの年月を、その手に染み込ませてきたんだろうと思うと、気が遠くなりそうだった。俺の手はまだ、相変わらず皺も少なく、張りもあって艶やかだった。
 ふと、おばあちゃんの人生を思う。今の時代とは全く違う時代を、おばあちゃんは生きてきた。今ある科学や技術もない時代に、何も楽しみに生きていたのだろう。不自由さだけを残して生きてきたのだろうか。
 それでもおばあちゃんは、俺とは違っていた。何でも簡単に出来、何でも手に入って、世界がどんどん広がっていく今の時代に生きる俺とは違って、おばあちゃんは楽しそうに生きていた。何もなくたって、生きていた。俺の方が恵まれているはずだった。なのにどうして俺が窮屈な思いをしているのか、わからなくてもやもやした。
 わからなくて、もやもやして、窮屈さに吐き気がした。


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