花が待つ雨 | ナノ


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 あと七日。

 この町の夏は、吐き気がするほど綺麗だった。
 小さなコミュニティバスはがたごとと、民家を縫うように道路を走った。坂道は随分揺れる。窓から入り込んだ良い風に呼ばれ、そちらを見ると、夏らしい濃い青がずっと向こうまで広がっていた。咽かえるように生い茂る緑の木々で作られた山は、そっと田畑を囲んで、小さな川だけが意思を持って、夏を動いていた。水面は照りつける太陽できらきらと光っていて、その冷たさと少し苔くさい匂いの記憶が蘇った。
 夏の音は、バスの冷房のごうごうとした音に負けていなかった。蝉はけたたましく鳴いた。鳥は夏の暑さも知らないように、木々を行き来した。高台にあるここは、いつでも風が強かった。さわさわと鳴る葉の音は、祭のように賑やかだった。
 あぁ、雨が降らないといいな、と俺は思った。
 コミュニティバスは終点も間近になり、客は俺一人だけになった。ぴんぽん、とちょっとひび割れた音の降車ボタンを鳴らし、小さなバスを降りた。運転手は名前も知らない、けれど知った顔の男だった。
 この町の夏は、俺の住まう町と、匂いが違った。都会の暑さは殺人的な鋭さを持っていて、人工的な匂いがした。この町は、そのままだった。土が少し水で湿ったような匂いがした。誰かが水を撒いたのかもしれない。葉の匂いでさえ、都会のそれとは変わらないはずなのに、どこか懐かしさを含んでいた。
 コンクリートに溜まった熱は、じりじりと下から僕を焼いた。陽射しを跳ね返す力を持っていないビニール傘を差して、僕は歩き出す。家を出て、かれこれ三時間経っていた。
 バス停からもっと先、段々になった山の斜面に並ぶように建つその集落に、俺のおばあちゃんは住んでいた。ひっそりとした暮らしは都会の友人には羨ましがられ、けれど俺には苦々しい思い出しかなかった。
 無意識に手に力が入る。傘の柄が汗でずるりと滑った。
 俺はこの田舎にやってくるのが嫌いだった。美しすぎる自然も、山に阻まれ都会の喧騒も届かない静かな空間も、俺には苦々しいものだった。けれど夏になれば、俺はここに来ざるをえなかった。
 おばあちゃんの家は林の隣にある。バス停のある少し大きな道から坂を上り、舗装が甘くなった林道に入る手前に、その家はある。林道と家との境目に、何度も見たことがある祠があった。土で少し汚れた牛乳瓶には、生き生きとした黄色の花が一輪刺さっていた。きっとおばあちゃんだろう。

「きたよ」

 この町には鍵をかけるという習慣がない。この家は来るたびに小さくなって見えた。木製のこの家は、随分と古い。濃い木の色は、古い香りがした。大きな台風でも来れば崩れ落ちそうなそれは、おじいちゃんとおばあちゃんの、そのおとうさんおかあさんの、ずっとずっと昔から、ここにあったそうだ。
すりガラスでできた扉は、がたつきながらも開いた。奥に向かって声をかけ、傘を閉じて玄関に上がり込んだところで、ゆっくりとした足音が近付いてきた。

「おかえり」

 暖簾から頭だけ覗かせたおばあちゃんは、そう言ってにこりと笑った。俺の家ではないのに、おばあちゃんはいつもそう言って俺を出迎えるのだった。
おばあちゃんは、昨年の夏よりも一回り小さくなったように感じた。髪は染めてはいたのだろうが、少し白髪が見えていた。笑うと目尻に皺が寄って、柔らかい。ふわりと漂った蚊取り線香の匂いは夏らしさを助長して、僕に苦々しい記憶を思い出させた。
 おばあちゃんと居間に行くと、三毛猫が足に擦り寄ってきた。おばあちゃんと一緒に住んでいるこの猫は、きなこと言う名前だった。すりすりと匂いをつけてくる。もう長く生きているから、人間にしてみると、おばあちゃんと同じくらいの歳だろう。

「ちょっと太ったんじゃない」
「運動したくないって言うからねぇ」

 きなこを両手で持ち上げると、思いのほか伸びた。無抵抗にぶら下がったままのきなこの太り具合を指摘すると、おばあちゃんは麦茶をグラスに注ぎながら笑った。きなこを下ろして、荷物を居間の片隅に置いた。きなこは気まぐれに走ってどこかに行ってしまった。

「相変わらず、匂いがするねぇ」

 盆に麦茶を乗せて居間にやってきたおばあちゃんは、俺の肩のあたりで鼻を鳴らした。ぞくぞくして、避けるように縁側に逃げた。きなこは縁側に蹲っていて、その隣に座って背中を撫でた。縁側には小さな庭があり、その隣に玄関があった。竹で出来た仕切りの間から、あの祠が見えた。
 おばあちゃんだけは、知っていた。俺の秘密を知っていた。それがどこか心強くもあり、どこか嫌だった。お茶とブタの形の蚊取り線香を持って、おばあちゃんも縁側にやってきた。俺の隣に人一人分の隙間を開けて、座った。縁側がきしりと鳴った。

「こればっかりは、仕方ないねぇ」

 気が遠くなりそうなほど青い空を仰いで、おばあちゃんはそう言った。いつもそうだった。みーんみん、みーんみん、と鳴く蝉の声だって、おばあちゃんはきっと、煩わしさも何もなく、そうやって流していく。

「好かれてしまったからねぇ」

 みーんみんみんみん。ちりりん、ちりん。田舎の夏は、思った以上に喧しい。夏の日差しは相変わらず、じりじりと緑を照らした。緑はそれに呼応するように、生き生きと葉を広げる。夏を喜ぶそれらは、俺の苦々しさなんて、知らないのだろう。
 吐き気がする。世の中はいつも複雑だった。喜びも苦々しさも、すべて一つであれば良かったのに。一つの喜びは、誰しもにとっての喜びではないのだと、俺はいつも、思い知らされる。その理不尽さに、絶望する。
 からん、と麦茶に入った氷が溶ける音がした。グラスをとって一口飲むと、ひやりとした冷たさが喉を伝った。美味しかった。けれどこれもまた、俺にとっての美味しさでしかなかった。たった一人では、物事の良さは推し量れなかった。

「おかえり」

 おばあちゃんは、もう一度言った。
 俺は一週間、この町で夏を過ごす。嫌いな夏を、嫌いな町で過ごす。
 俺は、この町に好かれ、この夏に好かれてしまったのだ。
 最後の、一週間だった。


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