最後の、一日。
夏休みは、もうすぐ終わろうとしていた。
携帯に母からメールが届いていた。明日は何時の電車で帰ってくるの、という内容だった。返事はせずに放っておいた。帰る気はなかった。
もう決めなければいけない。おばあちゃんには何も言わずに行こうと思った。荷物をまとめる気力さえなかった。覚悟を決める日数は必要なかった。もう俺は無気力になっていて、いちいち何かを精算していくような必要も感じていなかった。
おばあちゃんは、変わらずどこかに出かけていった。少し離れた土地にある、田んぼでも見に行ったのだろう。
予定していたわけではなかった。なんとなく、今だと思った。持ち物は何もない。Tシャツに短パン、サンダルを履いて、外に出た。空はカラッと晴れていて、吹いた風は蒸されて、ぬるかった。
外に通じる道に、祠は変わらず建っていた。花は新しくなっていた。次は白の花だった。きっと、薫が供えたのだろう。
「それじゃあ」
祠に向かって呟くけれど、やはりそれは返事をしなかった。苛立ちすらなかった。
結局俺は、何も見つけられないままだった。これからどうやって生きていこうか、矢印はどこにも差し示せないまま、そこで足踏みした。それも悪くはなかった。相変わらず雨は疎ましかったし、雨と一緒に生きていく窮屈なこれからに、生きる活力は見いだせなかった。つらいことはつらいこととして、ずっとまとわりついてくるものなのだ。
場所はもう決めていた。林道の奥の神社の奥、川の上流にある池だ。あの静かな場所で、溶けてしまいたいと思った。死にたいわけではなかった。でも生きていたくはなかった。死にたいわけでも生きたいわけでもなく、すべてが行き止まりになってしまったから、溶けてしまおうと思った。
サンダルは川で脱ぎ捨てて、その場に置いてきた。もう必要はなかった。あの日のように上流に向かって歩いた。冷たさは変わっていなかった。もうすぐ夏が終わる。秋がきたらこの森も、色を変えていくのだろうと思った。俺が溶けてしまっても、世の中は何も変わらず周り続けるのだろう。
石に張り付いた葉は、踏むとぬるついていた。川の水はどこまでも透き通っていて、濁りを知らない色をしていた。
川は、木々の間を縫うように伸びて行った。どこまでも続いて行きそうなそれは、やがて広がりにあたった。視界が開けたと思うと、あの池についた。葉の匂いと、生臭い匂いがした。
すい、と足を進めた。池に入ると、これまで辿ってきた川とは違って、ぐんと深くなる。膝丈の短パンの裾が濡れて変色した。あの時は行けなかった滝まで行こうと思った。
もう一歩踏み出そうとして、俺の左側に何か物が落ちてきた。ばちゃんと大きな水音を立ててそれは一瞬沈み、しばらくしてぷかりと浮かんだ。俺が置いてきたサンダルだった。
「忘れ物!」
聞き覚えのある声だった。少しだけ振り返ると、薫が川を上ってきていた。疲れたのか、やや離れたところで足を止め、岩に登った。
忘れたのではなく、置いてきたのに。
「ねぇ! あんた、死ぬの!?」
薫は楽しそうに叫んだ。口の左右に手を置いて、俺に声が届くように。そんなことしなくったって、この人気のない森の中では、薫の声はよく響く。
あんまり喧しいから、返事をしなかった。ストレートな口調も、もう気にしなかった。
「死んじゃうんだ!」
構わず俺は、足を進めた。振り返ることはしなかった。水の冷たさは気持ちが良かった。肩までずぶりと入って、水面を見つめた。太陽の光は水に反射して、きらきらと、綺麗だった。
「ねぇ! 良いこと教えてあげようか!」
薫はやっぱり楽しそうに叫んだ。
無視されていることも、厭わないようだった。当然かもしれない、薫はもう、他人を気にしないように生きると決めているのだから。
「僕が今も、この町に来る理由!」
薫の祖父母は、とっくの昔に他界している。それでも薫は、毎年夏になると、この町にやってきていた。
聞いてもいないのに、薫は言った。
「この町の夏はね! 綺麗な花が咲くんだ!」
この町の夏は、吐き気がするほど、綺麗だ。
空も風も木々も土も生き物も、ここではすべて、生きていた。確実な生を持って、ぐんぐんと、生きようとしていた。だからすべて、綺麗に見えた。
綺麗に見えすぎて、俺には眩しすぎた。
その中に、薫が生み出す花が生きていた。
「あんたがいるから、とても綺麗な花が咲くんだ!」
俺は毎年の夏、この町に来ていた。薫もまた、この町に来ていた。俺は雨を降らせて、薫は花を咲かせた。今まで俺の知らないところで、薫は花を咲かせていた。
今まで知らなかったのに、同じ時期に、同じ場所にいた。
俺がいるから、薫の花は綺麗に咲く?
「全然違うんだ、ここで咲かせるのと、違う場所で咲かせるのと! この町でだけ、綺麗に、たくさん咲くんだ! ずっと理由がわからなかったけど、あんたに会って、やっとわかった!」
薫はまた足を進め、川を上ってきた。池の縁について、一歩踏み出して深さに驚いたのか、ちょっと後ずさった。俺は構わず進んだ。足はもう、爪先しかついていなかった。
「僕の花じゃない花が、あんたの雨じゃない雨を、求めてる!」
滝の音が少しだけ近くなった。水面の揺れも大きくなった。薫は変わらず、俺に語りかけた。嬉しそうに、俺に話しかけるのだ。
知ったことではない。
やっぱり俺は、薫が嫌いだと思った。
「そんなこと、俺には関係ない!」
こんなに大きな声を出したのは初めてだった。振り返って水を掴み、薫に投げた。それは空中で霧散してうまく届かなかったけれど、飛沫だけは薫の服を濡らした。驚いて目を瞑った薫は、けれど楽しそうに笑った。
「そうだね!」
薫は足を池に突っ込んで、そのまま蹴りあげた。水は俺の顔に綺麗にかかった。思わぬ攻撃にちょっとむせて、きっと薫を睨んだ。
「そうだね! きっと、思ったものではなかった!」
楽しそうに言う薫は、笑いながら、泣いていた。
あまりにもぼろぼろと泣くので、ぎょっとした。
「でも、あんたがいるから、花は咲く」
それでも薫は、綺麗に笑った。花のようだった。
誰かにとっての喜びは、誰かのとっての苦しみかもしれない。誰かにとっての悲しみは、誰かにとっての楽しみかもしれない。それをわかって、それでも、それが生きるということだから。
強いな、と俺は思った。薫はきっと、それでもずっと、前を向いて行くのだろう。
あの時のように、泣いてでも、薫はきっと生きていくのだろう。
自分が被る理不尽の先にある、知らない誰かのために。
たいしたことじゃあないと、薫はおばあちゃんと同じように、吹き飛ばしてしまう。理由なんて必要はないと、笑い飛ばして生きている。
そんな強さを、俺は持っていない。
「きっと知らないところで、巡り巡ってずぅっと遠くで、あんたはどこか、誰かの為に生きてる」
薫の涙は川に落ちた。水面からぶわっと、花が咲いた。白い睡蓮だった。水面の揺れに乗って、睡蓮は俺のところまで流れてきた。ふわりと、良い匂いがした。
「きっと誰でもそうやって、見知らぬ誰かに、生かされてる」
そう言って薫は、花がほころぶように笑った。
「僕が、あんたに理由をあげる」
だから僕にも理由を頂戴と、薫は言った。
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