花が待つ雨 | ナノ


8  




 あと三日。

 ここ数年で初めて、高台を下りた。バス停から坂を登って高台の集落に入ったきり、俺はいつもそこを下りることはなかった。何か買い物に行くときは、バス停からバスに乗って違う町に下りていたから、歩いて下の集落に行くのは初めてだった。
 下りるとそこには田んぼが広がっていた。緑が青々としていた。道路から外れて、あぜ道を歩いてみた。途中のぬかるみをひょいと飛び越えながら、不格好な案山子を数えて歩いた。途中で腰を曲げて農作業をしていたおじいさんと目があった。あそこの子か、と声をかけられたので、会釈して通り過ぎた。小さな田舎じゃ、どこに誰がいるのかすぐわかってしまう。
 ぽつぽつと、田んぼの近くには家があった。大体が大きな家だった。この辺の集落は、家が大きく、ほとんどに倉庫のような建物が付随して建てられていた。家の周りは植え込みや石垣で囲まれていた。
 ある一つの家が目に飛び込んだ。田んぼから少し離れて、小さな丘になっているところにその家はあった。背後には山があり、木々はその家を飲みこみそうだった。目に着いたのはただ一つ、他の家と特徴が違っていたからだった。あぜ道から入る入り口は細い坂になっていて、その両脇には燦々と、花が咲いていた。黄色の花は見覚えがあった。花に造詣のない僕は種類も何もわからないけれど、細い茎の先っぽに、五つの花弁がついた花だった。風にさわさわと揺られるそれから、俺の知った匂いがした。黄色の眩しいその家は、誰の家だかすぐにわかった。
 坂を登ると、大きな家が見えた。入り口と庭は隣あっているらしく、薫は外からも見える縁側に座って、足をぶらぶらと投げていた。この前よりも少し焼けたように見える。
 家は俺のおばあちゃんの家とは違って、廃れていた。古さは同じにせよ、手入れの質は全く違っていた。長く誰も住んでいない、そんな漂った空気が薫の祖父母の家からは流れていた。

「きたんだ」

 薫は俺に気付いて、にこりと笑った。

「帰る」

 突然約束もなくやってきた非常識な人間に思えて、俺は帰ろうとした。
 そもそも目的は、この家にはなかったのだ。

「いいよ、おいでよ」

 薫はバタバタと奥に引っ込んでしまった。無視して帰るのも非常識に思えて、許可も得たことだしと自分を納得させながら、縁側に近付いた。またバタバタと足音がして、薫は棒アイスを一本俺に差しだした。真っ白で、バニラ味とみた。

「昨日、コンビニで買ってきたんだ。箱で」

 コンビニとは、バスで下に降りたところにある、二十四時間も開いていない商店のことを言っているのだろうか。暑さも厳しくなっていたので、俺はありがたくいただいた。縁側に座って包装を破くと、薫も隣に座った。がさごそと包装を破る音が俺のと違ったので思わず見ると、箱のアイスとは違う、もう少し大きな棒アイスだった。そっちは周りがチョコでコーティングされていた。薫は思ったよりも、おおらかな人間のようだった。
 縁側の足元にある石に足を置きながら、俺たちはアイスを食べた。ぽつぽつと会話もした。風が縁側から家の中に入り、吹き返した。家の中は少しだけ、埃っぽい匂いがした。

「ね、いつまでここにいるの」
「……決めてない」
「そ」

 薫はアイスのゴミを脇にやって、ごろりと仰向けに寝転んだ。ふわぁ、とあくびをするので、きなこに似てるなとなんとなく思った。

「……これから、どうしようかなぁ」

 いつだって笑って、明朗と話す薫が、初めて曇った声で呟いた。驚いて顔を見るけれど、もういつもの調子を取り戻したように、笑っていた。
 そういえば俺は、薫の笑った顔しか見たことがなかった。涙を流して花を咲かせたあの日だって、口元はにこりと笑っていた。

「帰ってくるな、ってさ!」

 薫はそう言い、大きな声で笑った。

「僕の家、花屋だったんだ。でも、僕が花を咲かすから、気持ち悪がられて、お客さんも来なくなっちゃった」

 仕方無いのにねぇ、と薫は言った。同意を求めるようなそれではなかったので、俺は黙っていた。

「ね、帰る家はあるの」

 くるりとうつ伏せになって肘をつきながら、薫は聞いた。

「ある」
「ふぅん」

 あるのはあるが、帰るつもりがないことは、言わなかった。

「僕にも、帰る家があれば、良かったなぁ」

 羨ましがるようなそれではなく、独り言のようだった。俺と変わってやろうか、と言いたかった。薫にとっての幸せは、俺にとっての幸せではなかった。俺はもう、帰るべきところに帰って、また毎日を過ごすのがつらかった。

「それでもまぁ、帰るけどね」

 薫はけらけらと笑った。両親の言葉を意に介していないような明るさだったので、虚言だったのではないかと思うくらいだった。薫が帰ってくるなと言われた場所は、薫にとっては帰りたい、薫の世界が残された場所だった。

「疎まれても、邪魔にされても、僕は僕の場所に、帰るけどね」

 追い出されても、薫にはそこしか居場所がない。そうやってまで執着して、花を受け入れて生きていこうとする強さが、尊敬を通り越して不思議だった。
 やっぱり俺は、薫が嫌いだと思った。
 薫に対して苛立ちもあった。いつもにこにこしていて、不平不満は呟いても、それはそれと受け入れてしまっていた。俺とは違うおおらかさと、どこか仕方無いと諦めて、それに満足しているような雰囲気も、俺の苛立ちを誘った。
 きっと薫は、怒りの矛先も、苛立ちの矛先も無い。無いと言うより、見つけるつもりがない。俺はいつだって、それらを求めて、どうしてくれるんだと訴えたい気持ちでいるにもかかわらず、だ。
 知ったことではなかった。それぞれの生き方がある。俺のような生き方は、結果として方向を失って、終わりに向かおうとしているだけだった。薫の生き方のほうが、優れているのかもしれない。けれど、どうにもそれは、俺には受けいれることが出来なかった。
 どうして、笑い続けるのか。
 羨ましがっているのだとは、認めたくなかった。

「泣けば」
「え?」

 気付いたらそう言っていた。思いのほかぶっきらぼうになってしまった。空は相変わらず、夏の様相を全うしていた。汗がじわりとこめかみを伝った。

「俺しかいないし、俺しかわからないから、泣けば」

 薫がいつだって笑っているのは、そうしないと認められないからだった。そうしないと、そこにいてはいけないと言われるからだった。
 自分のせいじゃないと言えれば楽だった。言ったところで何も変わらないから、何も言えずに口を噤んだ。そうやって責任を取らされてきた。それが、生きることだった。
 だったら許されるときだけでも、許される今だけでも、泣けば良いと思った。
 生きることは、いつだってそうだ。何もかも飲みこまないといけない。

「あんた、おもしろいこと言うね」

 薫はそう言って笑い、くしゃりと顔を歪ませた。ぽろぽろと涙が出た。涙は縁側の木目に落ちて、ぷくぷくと花が咲いた。薄紫の小さな花だった。あまりにたくさん咲くので、俺は慌てて薫を引きよせた。地面に落ちると花が咲く。人には咲かないのだと、薫は教えてくれた。俺の肩に押し付けるように頭を引きよせて、Tシャツに涙を吸わせた。
 俺が涙を拾えば、もう、咲かずに済む。肩がじんわりと濡れるのがわかった。薫の吐息が鎖骨のあたりに触れて、少し暑かった。けれど、不思議と嫌ではなかった。
 蝉の声が和らいだ。青い空は向こう側から茜色に染まってきていた。茜色を泳ぐように、トンボが空を横切った。湿った夜の匂いが、風に乗ってやってきた。この町の夜も、吐き気がするほど綺麗だった。
 今日はもう、雨は降らなかった。


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