その日、店は予想を上回る盛況だった。
元々のファンも来ていたのだろう、いつもよりも年齢層が低い、ややテンションが高めの女性客が多かった。喫茶店の常連客も、いつもより長居していたように思える。
「ありがとうございました」
佐伯さんが挨拶をすると、店内に拍手が上がった。キッチンでそれを聴きながら、これから退席する客のおかげで増えるであろう、洗い物の量に溜息をつく。
特に時間を定めているわけでも、プログラムがあるわけでもなかった。ふらりと佐伯さんがピアノの前に座り、自由に弾いて、勝手に去る。それを一日に何度か繰り返した。突然始まる小さなジャズライブは、サプライズ感を相まってか、評判はかなり良かった。
疲れた。正直なところ、ピアノを聴く余裕すらなかった。ラストオーダーの時間となり、最後のピアノを終えて、今日の営業も終了した。後片付けを済ますとどっと疲れが押し寄せて、フロアの椅子を上げる余力もなく、座って一息吐いた。
「あっ、お疲れ様」
からん、と入口が開いたと思うと、佐伯さんだった。肩にタオルをかけているのを見ると、さすがに佐伯さんも疲れたらしい。ふう、と大げさにも聞こえる息を吐きながら、僕の目の前に座った。
「いやぁ、思った以上にうまくいってよかった」
「…………」
「裏、大変だったでしょ。ごめんね」
一応、首を横に振っておく。
正直なところ、佐伯さんとだらだらと話すくらいだったら、さっさと帰りたかった。明日が休みだということもあって、ゆっくり過ごしたかった。
「お礼に、って言ったらあれかもしれないけど」
つい、と佐伯さんが徐に歩き出して、ピアノの蓋を開けた。椅子に座って、距離を調整している。
長い指が、鍵盤に触れた。一音、音が跳ねる。知らない曲が、紡がれた。夜のバーで流れてそうな、しっとりとしたジャズ。佐伯さんが楽しそうに微笑んで、指先で、音で遊ぶ。
楽しそうに、音を奏でる。
「…………」
綺麗、と、そう思ったのは、心が揺さぶられたから。
感情なんてもう無くなったと思っていた。必要ないとも思っていた。人間らしいものは、もう残ってないと思っていた。
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