きこえる | ナノ


6  




 次の日バイトに行くと、事務所で佐伯さんに会った。

「あ、おはよ」

 ロッカーと小さな机しかないそこで、佐伯さんは机をピアノ代わりに指でリズムを鳴らしていた。頭を下げて横を通り、ロッカーを開ける。

「体調、どう?大丈夫?」

 ふと思い出すのは、上着のポケットに入れっぱなしの名刺。こっそり手を突っ込むと、小さく丸まった名刺がころころと転がった。

「顔色、良くなったね」

 人懐っこく、佐伯さんは笑う。黙っていると少し冷たそうな印象の整った顔が、笑うとくしゃりと柔らかくなる。
 多分、この人はお人好しで、偽善者だ。成功者にしか歩めない道を歩いている。可哀想な弱者をどうしても放っておけなくて、心配して構う自分に酔っている。
 こういう人種を今まで何人も見てきた。僕を見る目はそういうものが多かった。けれど、いざ重苦しく手に負えないとわかった瞬間に、みんな離れて行く。
 結局は誰しも、自分が一番大事なのだ。
 その偽善がどこまで続くか。

 着替えは面倒なので、僕はほとんど制服の状態で家を出る。黒のワイシャツに黒のパンツ。事務所で着るのは腰か足元まで伸びる、長いサルンだけだ。
 きゅ、と腰にサルンを結んだ。自分でもわかる。少し、細くなった。

「ピアノ、今日から試しに店で弾いてみることになったんだ」

 たたん、たたたん。指が音のないリズムを刻む。

「朔くんも、聴いてね」

 僕に音楽の教養はない。でも、佐伯さんのピアノは、聴いてみたい気もあった。
 頷こうとして、はっとする。絆される。咄嗟に沸き起こった防衛本能に、拳をぎゅっと握った。
 あまり人を信じないようにしようと決めたのは、家を出たあの日から。

「…………朔くん?」

 想像以上に近くで呼ばれて驚く。ぼうっとしているうちに近付いてきていたらしい。
 ロッカーをぱたんと閉じ、頭を下げて、横を通り抜ける。

 綺麗な音を奏でる人。信じてみたい気があるのは嘘ではない。けれど、すぐに絆されるつもりもなかった。


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