次の日バイトに行くと、事務所で佐伯さんに会った。
「あ、おはよ」
ロッカーと小さな机しかないそこで、佐伯さんは机をピアノ代わりに指でリズムを鳴らしていた。頭を下げて横を通り、ロッカーを開ける。
「体調、どう?大丈夫?」
ふと思い出すのは、上着のポケットに入れっぱなしの名刺。こっそり手を突っ込むと、小さく丸まった名刺がころころと転がった。
「顔色、良くなったね」
人懐っこく、佐伯さんは笑う。黙っていると少し冷たそうな印象の整った顔が、笑うとくしゃりと柔らかくなる。
多分、この人はお人好しで、偽善者だ。成功者にしか歩めない道を歩いている。可哀想な弱者をどうしても放っておけなくて、心配して構う自分に酔っている。
こういう人種を今まで何人も見てきた。僕を見る目はそういうものが多かった。けれど、いざ重苦しく手に負えないとわかった瞬間に、みんな離れて行く。
結局は誰しも、自分が一番大事なのだ。
その偽善がどこまで続くか。
着替えは面倒なので、僕はほとんど制服の状態で家を出る。黒のワイシャツに黒のパンツ。事務所で着るのは腰か足元まで伸びる、長いサルンだけだ。
きゅ、と腰にサルンを結んだ。自分でもわかる。少し、細くなった。
「ピアノ、今日から試しに店で弾いてみることになったんだ」
たたん、たたたん。指が音のないリズムを刻む。
「朔くんも、聴いてね」
僕に音楽の教養はない。でも、佐伯さんのピアノは、聴いてみたい気もあった。
頷こうとして、はっとする。絆される。咄嗟に沸き起こった防衛本能に、拳をぎゅっと握った。
あまり人を信じないようにしようと決めたのは、家を出たあの日から。
「…………朔くん?」
想像以上に近くで呼ばれて驚く。ぼうっとしているうちに近付いてきていたらしい。
ロッカーをぱたんと閉じ、頭を下げて、横を通り抜ける。
綺麗な音を奏でる人。信じてみたい気があるのは嘘ではない。けれど、すぐに絆されるつもりもなかった。
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