「ここだよね?」
数分歩いたところにある、小さなアパートに着いた。佐伯さんは僕をゆっくりと背中から降ろした。
「部屋まで、大丈夫?」
小さく頷いたけれど、逆に心配そうな顔をされてしまった。
「……朔くんは、いつもそうなの?」
「…………?」
「マスターにもそうだけど…………甘えようとしない」
顔色、自分が思ってるよりも悪いよ、と付け加えられる。
「きついならきついって、無理なら無理って、ちゃんと言わなくちゃ」
「…………」
「一人暮らしでしょ?初対面でこんなこと言ってお節介かと思うかもしれないけど……」
佐伯さんはポケットの名刺入れから名刺を取り出し、僕に差し出した。勢いに押されるように、思わず受け取ってしまう。
「俺の携帯の番号、そこ載ってるから。何かあったら、すぐ電話して」
ゆっくり休むんだよ、と言い残して、佐伯さんは行ってしまった。
部屋はアパートの二階。鍵を開けて電気を点けると、殺風景な部屋が広がっていた。ここに越してきて、もうすぐ一年になる。高校卒業と同時に、実家から逃げるようにここにやってきた。
右手の中に入っていた名刺をぐしゃりと握り潰す。
ちゃんと言わなくちゃ、と言った佐伯さんの顔を思い出した。
言って、何が変わるというのだろう。つらくて、痛くて、悲しくて、逃げだしたくて、けれど僕には言える人なんていなかったし、言ったところで誰も助けてくれなかった。
助けを求めることは、弱さを晒すことだった。惨めだった。自分が可哀想なやつだと思われるのが嫌だった。言ったところで何も変わらないなら、言うだけ無駄だと思った。
小さく丸まった名刺を拳の中に感じた。投げ捨ててしまおうかと拳を振り上げて、やっぱり、止めた。
ピアノの音を思い出した。
たった少しのフレーズだったけれど、綺麗な音だった。
僕を救ってくれた教会で響いた、オルガンの音とどこか似ていた。
そんな音を紡げるあの人を、信じてみたい気もあった。
祈りにも近いその願望に、少しだけでも頼っても良いかと思いながら、そっと拳を右ポケットに突っ込んだ。
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