きこえる | ナノ


9  




「朔くん、ブレンド一つ」

 ホールからマスターの声がして、僕は温められたカップを手に取った。

「はい」

 了解の返事を入れ、珈琲を注ぐ。
 今日の営業は天気も良い休日と言うこともあり、朝から客入りが良かった。冬の寒さはすっかりと抜け落ち、春の陽気がポカポカと空気を暖めていた。最近はホットだけではなく、アイスの注文も増えてきた。

「マスター、ブレンド一つ」

 キッチンから顔を出し、カウンターにいるマスターにカップを差し出した。マスターはにこりと笑って頷き、銀のトレンチにフレッシュとシュガーの小瓶を乗せて客のもとへ運んで行く。
 ピアノの音は、今日も聞こえていた。カウンターから覗き見ると、佐伯さんは相変わらず鍵盤の上で指を躍らせていた。調子は良いみたいだ。視線に気付いたのかこっちを見て、一瞬だけ笑った。

「おい、仕事中だろー」

 言われて、はっと視線を反らした。声を上げたのはカウンターに一番近い窓際の席に座る、永末さんだった。

「……そんなんじゃ、ありません」
「へぇ?」

 楽しそうにケラケラ笑う。永末さんはこうして休みのときにやってくる。佐伯さんのピアノにまだまだだなぁなんてケチをつけながらも、随分と長居するから強ちそうでもないのかなと思っている。
 ちりん、と入口のベルが鳴った。長身の身体を折り曲げるようにして入ってきたのは、カフェに似合わない一人の男だった。

「いらっしゃいませ」

 他のお客さんの対応をしているマスターに代わって、声をかける。男―――僕の父さんは、控えめに笑った。

 あれから、僕は父さんと直接会うことはなかった。
 本当は、怖かった。父さんに支配されることは当たり前で、あるべき姿だと思っていた。けれどどこかで、自分を殺していることも自覚していた。
 自分を殺して、叫ばないように、助けを呼ばないように、声を無くした。ただ佐伯さんだけは、声を無くしても僕の言葉を聞いてくれた。
 綺麗な音を作る佐伯さんが、僕に音をくれた。

 父さんとは、マスターを仲介にして和解をした。父さんは結局歪んではいたけれど、僕をそれなりに愛してくれていた。
 そんな父さんを、嫌いになんてなれるはずがなかった。
 まだ、二人きりで会うのは怖かった。けれどこうして、時々お店にやってきてくれることがあった。
 佐伯さんは複雑そうな顔をするけれど。


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